「恋愛」の耐えられない軽さ(3)

 遅くなりましたが、Maybe-na氏のこちらの記事への回答です。

 簡単に言うと、モノガミーというのは「性愛において一対一の関係を優先する人」であり、ポリガミーというのは「性愛において一対一の関係を優先させず複数の人と関係を持つ人」のことを指します。なぜ浮気がいけないのかといえば、要はモノガミーの人同士が「あなたが私以外の人を好きになると私は嫉妬します。あなたも私と同じでしょうからお互いに他の人と付き合ったりするのはやめましょう」という約束(黙約)をするからです。
(中略)
 さて。というわけでid:crowserpent:20060305さんへの返信なのですが、劇場型犯罪の例えは納得できたのですけれど、恋愛と承認の関係はいまいち納得しきれない部分があります。たしかに(私も含む)モノガミーの人にとって浮気されたされないは重要なことなのですが、それはセクシュアリティの問題ではないのか? とも思うわけです。

 ポリガミー(ポリアモリー)を考慮に入れた時点で、前の記事で私が述べた「恋愛という形式」は破綻します。これは、「恋愛という形式」がそもそもモノガミーを前提として作られているためなんです。

 まず根本的な問題として、「恋愛」と「性愛」はイコールではありません。「恋人」とは別の概念として「セックスフレンド」という言葉があるように、「恋愛」と「性愛」は区別して使われています。「性愛」は人類始まって以来存在しますが、「恋愛」はそうではないんです。
 「恋愛」がいつ「作られた」のかは諸説ありますが、概ね近代社会が成立してからと考えていいでしょう。日本の場合、江戸期までの支配者層における性愛の形式は「一夫多妻」が前提になっており、今の日本で多数派であるようなモノガミーの「恋愛」とは全く様相の異なるものでした。また一般庶民においても、やはり性愛の形式は現在とは大きく異なったものとなっています。このことは加藤秀一氏の「〈恋愛結婚〉は何をもたらしたか」に詳しく述べられています。
 日本における「恋愛」は明治になって初めて成立した文化であり、その背後には「明治政府主導による近代化の促進」という政治的な問題をも孕んでいます。「恋愛という形式」は、モノガミーでないセクシュアリティを排除することによって成立したんですね。ポリガミー(ポリアモリー)というセクシュアリティが、しばしば「浮気」や「不倫」と混同され誤解されるのも、「恋愛」がモノガミーを前提にしていることのあらわれだと言えます。

(ただし、ポリガミー的な性愛関係が承認欲求と必ずしも無縁であるわけではありません。モノガミーの人が「性的関係の相互独占」を性的承認の必要条件とするのに対し、ポリガミーの人はそれを必要としないだけです。要は「何をもって承認されたと感じるか」という「承認の形式」が異なっているわけです。)



 というわけで、「自分は相手にとって特別な存在である」ということを「恋愛という形式」によって確認するという作法は、最初からモノガミーを前提としたものであり、かつ歴史的にも比較的新しいものなんです。
 このような「恋愛」が近代になって作られたことには一定の理由があります。近代化以前の社会は土地あたりの農業生産性が低かったため、必然的に人口の大半が農業に従事し、地主による大規模な農地支配の形を取っていました。そのような社会では人の動きは少なく、多くの人間が生まれた土地を離れずに一生を終えたわけです。いわゆるムラ社会とか共同体社会と呼ばれるものなんですが、そこでは以前の記事で述べたような「取替え可能な人間関係」は存在しません。近代的な「取替え可能性」は、無数の人間や財物が自由に交換できる市場が出来て初めて成立するものだからです。

 貨幣経済の進化とともに人間が自由に行き来し、職業を選択できるようになったことで、人間は「労働力」として交換可能な存在になったわけです。逆説的な言い方になりますが、「相手が自分にとって特別な存在である」ことが信じられなくなったからこそ、「特別な存在」の証とするために「恋愛という形式」が作られたんですね。本田透氏が恋愛の交換可能性を以って「恋愛は死んだ」と言うならば、「恋愛」は作られた当初から既に死んでいたとも言えるでしょう。神は死んだのではなく、最初から居なかったんです。

 このように見ていくと、喪男道のような一部の非モテ(または喪男)が保守的かつ前近代的な主張をしているのは、なかなか興味深い現象だと言えるかもしれません。彼らが「恋愛市場(資本)主義」と呼んで唾棄しているものは、まさしく「市場」によって生み出された「人間の交換可能性」に他なりません。彼らは自らが交換可能性に晒されることに耐えられない人達であり、それ故に家族の絆という取替え不可能なものを重視し、同時に近代的な自由の概念を軽視します。
 彼らは「誰かに特別な存在として承認されなければ、(交換可能なままでは)自己承認できない」わけで、その意味で恋愛至上主義者と同じ穴の狢です。「特別」を恋愛に見出すか、恋愛を否定して別のものに見出すかだけの違いなんですね。