「女はわからない」という幻想

 watapoco氏の記事のタイトルにもある通り、「男と女の間には深い溝が横たわっている」というセリフは古今東西よく聞かれます。男と女は相互理解のできない生き物だ、という趣旨の著名人の格言はいくらでも挙げられるでしょう。私は長い間、このような言説に馴染めないでいました。というのも、私にとっては、同性である男性の方こそが「深い溝」を感じざるを得ない「理解し難い生き物」であったからです。

 さて今回は、こうしたよく言われる「男性から見ての女性のわからなさ」が一体どのようなところからくるのか、その背後にある問題について考えていきたいと思います。引用は正午氏のこちらの記事と、それに対するwatapoco氏のTB記事より。

 つまり童貞には童貞にしかわからないセックスの真理があり、モテにはモテにしかわからないセックスの真実がある。

 自らの体験について語るということは、手のひらから次々にこぼれおちていくものについて語ることであり、女を抱いたところで何ひとつ理解できはせず、むしろ抱けば抱くほど女はわからない。
結局は接した女のことしか、しかも自分の分かる範囲でしか知ることはできない、いや女と接する接しない以前に、男にとっての性の真実は男の中にある、という感じの両エントリなんだけど…

これって男女の間に限ったことなのだろうか。自分の理解できる範囲でしか理解できないというのは、同性同士でも同じではないのか。
なんか、同性同士だって同じでしょー、とは言えない深い断絶を感じる。
女って、男にとってそんなにも分からない生き物だったのか。

 私が「男には女はわからない」というフレーズを見て反射的に考えたのは、「それじゃ、男なら男に全て理解できるのか?」ということでした。男だろうと女だろうと、他者である以上は完全に理解できないのは当然で、その意味で言うなら「他人はすべからく謎」ということになるでしょう。watapoco氏の投げかけている疑問も、おそらくは同じようなものだと思います。「自分の理解できる範囲でしか理解できない」のは男女の間に限った話じゃない、なぜそれだけを特別扱いしようとするのか、と。

 しかし実は、正午氏の述べていることは「自分の理解できる範囲でしか理解できない」などという生易しいものではないんです。彼の発言を正しく変換するなら「自分の思い入れの範囲でしか理解できない」となります。「童貞(モテ)にしか分からないセックスの真理」とは、彼らの「セックスに対する思い入れ」のことに他なりません。
 これは一見分かりづらい差ですが、しかし決定的な落差です。なぜならこのような態度は、実際の男女の間に横たわる「性の現実」を理解しようとするのではなく、自分の頭の中にしかない「性の真実」の方を現実にあてはめようとするからです。

 「性の現実」を排除したければ、たとえ見えていても見えないふりをすることです。人は理解できないものに恐怖をかきたてられますが、同時にそれを神秘的なものとして尊崇することがあります。神秘化とは理解し難いもの、理解したくないものを排除する手段の一つなんですね。そして、神秘性を演出するためには、対象が理解不能であればあるほど好都合です。

 もうお分かりでしょう。「男には女はわからない」のは、男と女が遠く隔たった異界の存在だからなどではありません。「思い入れの中の女性像」を壊されたくない男性が、現実の女性との相互理解を自ら拒んでいるに過ぎないんです。彼らは女性が「わからない」のではなく「わかりたくない」のであり、そのために元々ありもしない「断絶」を自ら作り出します。十字架にかけられたイエスの像を拝むキリスト者のように、幻想で飾られた女性の像を拝みたいだけなのです。



 では反対に、「女がわかる」とはどういうことでしょうか? 正午氏のこちらの記事から見てみましょう。

女性に対して、男性が取るべきだと考える行動を、次の三つから選んでね。
さあ、あなたはどのタイプ?

1)女がわからないまま、セックス 
2)女がわからないことを受け入れて、セックス
3)女をわかろうとして結婚、セックス、離婚(繰り返し)

 この選択肢を見れば、「女がわかる/わからない」とはどういうことなのかがはっきりします。ここでの「わかる」とは女性を通して見たセックスのことを指しており、性的存在としてでない女性は最初から想定されてすらいません。つまり、ここでの「女がわかる」とは、何か特別な「女」なる観念が世界のどこかにあり、それが理解できる、という意味なんですね。ここでの「わかる」もやはり幻想の中の女性像が前提になっているわけです。

 この「女というものをわかりたい、理解したい」という不思議な欲望は、「支配と独占の対象としての女性」を前提にすればすっきり解釈できます。ここでの「理解する」とは「自分のものにする」と同義になっています。「わかりたい」のは「普遍的な女(という概念)」であって、個々の女性ではないんですね。

 ここで注意すべきなのは、「女というものをわかりたい」と思っている男性が、女性を「支配と独占とセックスの対象としか見ていない」わけではない、ということです。こうした男性は、一方で「個々の人格としての女性」を理解しつつ、幻想の中の「女性という概念」を求めているわけで、両者の葛藤の中で常に揺れています。彼らは、「女性を『女性という概念として』理解したい」という欲望が当の現実の女性を傷つけることを、実はよく知っています。

3)を選んだあなた、わかろうとしてセックスするの?
最悪ね、あなた、永遠に幸せになんてなれないわよ。
ほとんどの女性ってのは、理解をしようとする男なんて、鬱陶しくてたまらないのよ。
とっとと絶望してあきらめて、女でも買いにいったらどう?

 「女がわかる/わからない」とは結局のところ、男性から女性への過剰な思い入れの所産であり、それ自体が幻想です。こうした男性がこのことを問題にしてしまうのは、「女性に受け入れられること・承認されること」をアイデンティティの核にしているからに他なりません。彼らは女性に承認されなければ充分に自己承認することができず、「自分が男であることの自信」を失ってしまいます。彼らは、「女性に承認されようとされまいと、自分が自分であるという現実は何一つ変わらない」ということがどうしても理解できません。いや正確には理解できないのではなく、理解はできても納得ができません。

 こうした「思い入れ」から逃れる一般的な方法はありません。多くの場合は「セクシャルアイデンティティの不一致」と同様、一種の持病として抱え込みながら付き合っていくしかないんでしょう。
 しかしながら、「自分の思い入れは現実と異なる」という自覚を常に持ち続けることで、他者(ここでは女性)を不要に傷つけたり、負担を与えたりしなくてすむかもしれません。そうすれば、女性を支配対象でも恐怖の対象でもなく他者として受容していくことは、それほど難しいことではないと私は思っています。「わからない」という幻想に縛られさえしなければ。