「恋愛」の耐えられない軽さ

 大変遅くなりましたが、Maybe-na氏のこちらの記事への返信です。

例えば、これは「恋愛」である、というとき(「愛」でも「セックス」でもいいのですが)
  1. これは恋愛である。これは恋愛ではない。という判断をするためには恋愛とはこれこれこういうものだという形式が必要。
  2. その形式には再現性と反復性が必要(再現できないと誰もそれを体験できなくなる)。
  3. 恋愛に一定の形式があるということは、人によって得手不得手があるというid:crowserpentさんの意見には同意。でも、再現と反復が可能なものは人に売れます。恋愛もセックスもカタログ化・マニュアル化されているのですから当然売れます。この形式が得意な人が得意でない人の分を生産すればいいわけです。それから再現と反復はパソコンなんかも大変得意ですね。
  4. そりゃ、風俗やエロ本やエロ漫画やエロゲーやエロ同人誌が売れるわけだ。
  5. そこで「いや、その理屈はおかしい。金銭が介在する関係は恋愛ではない」という思想が唐突に出現。そして次の選択支出現。
a.「つまり、お金を払う以外は恋愛と変わらないんだね」
b.「いや、お金以外にも恋愛ならではの特徴があるんだ」→1へ戻る。

こういうドツボにはまっているのですよ。

 「かけがえのない存在」という表現があります。「とても大切な存在」という意味ですが、これは「取替えが効かない」ことを示唆する言葉でもあります。「歯車のような存在」といった表現と比べると、私達が「大切なものかどうか」を「取替えが効くかどうか」で判断していることがよく分かります。「お金で買えない価値がある」などという表現も同様ですね。
 すなわち、「お金で買えるかどうか」とは「取替えが効くかどうか」を問うているのと同じなんです。

 「金銭が介在する関係は恋愛ではない」という思想は、このような発想をベースにしています。要はこれは「恋愛は取替えの効かないものだ」の言い換えなんですね。

 ここには、「いや違う、恋愛は本当は取替え可能なんだよ」では済まない問題があります。恋愛は何のためにするのか、という問いには一概に答えは出ないでしょうが、恋愛したいと思っているほとんどの人は「特別に承認し合う関係性」を求めているに違いありません。恋するということの中には相手を特別な(かけがえのない)存在にしたいという欲望が含まれています。だとすれば「恋愛は取替え可能」というテーゼは、恋愛したい人にとって致命的です。

 これは実は、「恋愛」というものの根底に関わる、差し迫った問題であり、「電波男」で本田透氏が主張した「恋愛の死」の核心でもあります。このことは、ゾゾコラムこの記事から窺い知ることが出来ます。

つまり、ひらたく言うと「神様の代わりに、神様みたいにパーフェクトな彼女(彼氏)と永遠の愛を満喫しちゃおう!と思ったけど、パーフェクトな彼女(彼氏)なんていないし、パーフェクトな彼女(彼氏)がいたとしても自分なんかを選んでくれるワケがないし、万が一パーフェクトな彼女(彼氏)と相思相愛になったとしても永遠にラブラブなんてありえないから、『恋愛至上主義』って無理だったね、てへっ♪」というコト。(中略)ここまで男女がいがみあいだしたら、あるいは互いに失望しだしたら、ヘテロセクシャルである限り「恋愛」に「大切な大切な自分」を賭けるのは無茶だ。ホモセクシャルだってたぶん無茶だ。つまり「大切な大切な自分」を賭けるのに、「恋愛」は価値が見合わなくなってきたのだ。
じつはアタシが中学生の頃、悲しい出来事があった。アタシの誕生日が近づいたある日のこと、生まれてはじめてできた彼氏と長電話をしていると、その彼が「そういえば最近、なんかほしい物がある?」と尋ねてきたのだ。「あ、誕生日プレゼントのリサーチかな?」と察したアタシは、それとなく迷彩柄の小物に凝っていること、いま一番ほしいものは部屋に飾るモデルガンであることを伝えた。そして誕生日当日「きっとモデルガンを用意してくれたに違いない!」と期待したアタシに贈られたのは、なんと「ファンシーな二人のピエロが音楽と共に回転する、とってもファンシーなオルゴール」だった。彼氏は「このピエロは俺とオマエだ」と嬉しそうにのたまい、そしてアタシは落ちこんだ。……オルゴールなんか、ぜんぜん欲しくなかった。(中略)「ああ、この男はアタシではなく『俺』と『オルゴールを喜んでくれる理想の彼女』が好きなヒトなんだ」と絶望した。

 ゾゾミ氏のエピソードは、「恋愛」の内実を雄弁に物語っています。
 恋愛の当事者は、誰もがお互いを「特別な存在」と思いながら、その実「取替え可能な存在」として扱ってしまっているという、そんな構図が見えてきます。ここでの問題は「オルゴールを喜んでくれる理想の彼女」などどこにも存在しない、ということではなく、自分の理想の恋愛形式という「取替え可能なもの」を求めながら「特別に承認し合う関係性」を期待するという、恋愛のあり方そのものの中にあるんです。
 このことを認めたくない人は、何とかして「取替え可能性」を否定しようとします。最も分かりやすいのが、交際相手に求める貞操ですね。恋愛において相手を束縛しようとするのは、相手にとって自分を「かけがえのない存在」にしておきたいからに他なりません。「浮気」とは恋愛の取替え可能性の端的な証拠であるとも言えます。保守的な性の観念も、このようなところから生じてくるわけです。

 しかし、このことを認めてしまえば(少なくとも恋愛においては)「自分はかけがえのない存在ではありえない」と認めてしまうことになります。恋愛したい人にとって、これが耐え難い事態であることは言うまでもないでしょう。ならばどうするか? 「取替え可能な存在であると知りながら、それでも敢えて取替え不可能性を思い込み続ける」ことも出来るでしょう。しかしこれでは根本的な解決にはなりません。「自分は相手にとってかけがえのない存在にはなれない」ということは「取替え可能な(=相手に都合の良い)存在としてしか扱われない」ことを意味するからです。

 だとすれば、恋愛に「特別に承認し合う関係性」を求める人達は、絶望するしかないのでしょうか?



 ここで注意すべきことは、人間を「取替え可能である」とみなしているものは何か、ということです。人は皆一人一人異なる人間ですから、本来は「取替え可能」であるはずなどないわけです。人間を取替え可能にしているものは何か? それは貨幣であり、市場であり、法律であり、労働であり、あるいは恋愛であります。これらはいずれも、人間同士の様々な関係を媒介するものです。そして、こういったものがあるおかげで、「特別に承認し合う関係性」がなくとも私達は生きていくことができます。
 ということは、恋愛を「取替え可能」にしているのは、恋愛という形式そのものであるわけです。「恋愛という形式」は、性愛を取替え(再現)可能にするために必要な媒介なんですね。この意味で本田透氏の「恋愛資本主義」という言葉は的を射た表現と言えます。しかし、「現実世界には純愛がない」という嘆きは、結局本田氏が「恋愛資本主義」を一歩も出ていないことを意味しています。「純愛」という観念もまた取替え(再現)可能なものだからです。

 「恋愛という形式」は、要は性愛関係を結びやすくするための媒介であり、「承認のための道具」なんです。そこから「特別に承認し合う関係性」を作れるかどうかは、お互いがお互いの異なる点をいかに理解し、受け入れられるかにかかっています。「恋愛という形式」はそういう役には立ちません。そして、単にそれだけの話でしかないんです。媒介だけに頼っていては「特別な承認」が得られないのは言わば当たり前の話です。
 「恋愛という形式」そのものが悪いわけではありません。しかし、「恋愛」はあまりにも多くのものを含みすぎています。その枠に合わない人にとっては、「恋愛」は媒介としての役割をきちんと果たしません。それなら、そんな媒介など使わないか、別の媒介を探せばいいんです。いずれにせよ、「特別な承認」を得るためには、それらは何の役にも立たないんですから。

だから、本田さんを見ていると、大して違いのないことに大差をつけようとして無駄に苦しんでいるのではないか、と思ってしまいます。ホントに二次元と三次元はそこまで違うのでしょか?

 Maybe-na氏のおっしゃる通り、二次元恋愛にせよ三次元恋愛にせよ、それらが再現可能な何らかの「媒介」である点では一緒です。本田氏が苦しんでいるとすれば、それは「特別な承認」を得るための「一般的な手段」を探そうとしているからでしょう。いかなる形であれ、そんなものは原理的に存在しません。そして、たとえ誰にも承認されなくとも、私達は皆「再現不可能」な自分自身の時間を生きています。