童貞で何が悪いか!(2)

 前記事にいくつか感想を戴きましたので、改めて私の主張を再整理しつつ、論じてみたいと思います。
 まずはtomoco氏の感想と、それに関するカマヤン氏の議論から。

tomoco氏
■問題なのは
童貞であることでも処女であることでもそのメンタリティでもなく、出生率が低下しているということであり、イコール生き物として生殖能力が低下しているということじゃないんだろうかと、このへんを読んで思った。そう考えると生き物として30代の童貞や処女はやっぱり不自然なのではないか。
カマヤン氏
環境がもたらすある種の圧力によって「童貞」「処女」が、おそらく相対的に貧困な層で増えるのではないか、とカマヤンは思う。
(中略)
貧困にあると孤立化し、貧困は外から見えなくなり、さらに孤独になる、というスパイラルがある。

経済収縮期には、主観的要因より「貧困」という外的要因から観察する方が妥当だろうと私は思う。現在は経済収縮期だ。だからその少ない取り分を「(政治的・経済的)強者」たちが分捕りあい、相対的(政治的・経済的)弱者は静かに「自殺」していく。

 要は「童貞・処女の増加」が社会的経済格差によるものではないか、ということですね。前回言及した記事でカマヤン氏が何を危惧していたのかはこれで理解できました。しかし、この推測は如何なものでしょうか?

 まず、性行為経験の有無を「少ない取り分を分捕りあう」というゼロサムゲームに喩えている時点で相当に無理があると思いますが、「童貞・処女」は果たして「弱者」なんでしょうか?
 経験論になってしまいますが、私の知る限り「高齢童貞・処女」には高学歴の人が少なくなく、高収入を得る可能性も低くはないと思います。彼らを「経済的弱者」とするのはどこをどう考えても無理があります。経済格差と性経験に有意な関係があるとは到底思えません。
 従って、今のところ「経済格差が童貞・処女の増加をもたらしている」という主張は根拠のない憶測と考えざるを得ません。

 また、tomoco氏の「生き物として不自然」という主張に関しては、以前に「生物学的という詐術」でも述べたとおりです。出生率の低下はあくまで社会的な問題であり、安易に「生き物として」解釈すべきではありません。



 次にputchee-oya氏のこちらの記事と、その後の私とのやりとりから。

putchee-oya氏
で、ブログに独り言をめんめんと綴っている童貞さんは、童貞をこじらせやすいという傾向があると思うんです。独り言とはいえ、全世界に発信するわけだから、いちおうみんな書くことをキッチリ考え抜くわけですよ。 (中略) そうした思考の果てに「よし!脱童貞目指して頑張ろう!」って結論に至る人は、おれが見る限り本当に少ない。たいてい負のループに陥っている。オナニースパイラルにハマってしまっている人も多いのかもしれない。
(私のコメント)
「セックスは本来経験した方がいいはずのものだ」という予断が随所に感じられます。私の気のせいでしょうか?
(putchee-oya氏の新記事より)
セックスは経験しといたほうがいいと思いますよ。セックスが好きである必要もないし、セックスするためにガムシャラになる必要もない、「セックスしたくない」「セックスする必要を感じない」っていう意志の持ち方も尊重すべきですけど、まぁ経験ぐらいはしといたほうがいいんじゃないですかね。

 「セックスを必要とするか否かはともかく、経験ぐらいはしといたほうがいい」というのは一見、穏当な議論に見えます。「食わず嫌いをするな」ってことですね。ところが、この種の言説は不当であるばかりか、結果的に「童貞をこじらせる」ことを後押しするんです。

 このことは、引用箇所の文をちょっと書き換えればすぐに理解できることです。
ハッテン場は経験しといたほうがいいと思いますよ。同性が好きである必要もないし、同性とセックスするためにガムシャラになる必要もない、「男とセックスしたくない」「俺はゲイではない」っていう意志の持ち方も尊重すべきですけど、まぁ経験ぐらいはしといたほうがいいんじゃないですかね。
 もちろん、こんなことをヘテロ男性に主張するゲイは居ません。しかし、putchee-oya氏の主張していることは、これと同じことでしょう。
 これは単なる言葉遊びではありません。これまでどれだけ多くの同性愛者が、同じ論法で「異性と経験してみるのも悪くないよ?」「食わず嫌いじゃないの?」と言われ続けてきたことでしょうか?
 「問題にしているのは異性愛者の童貞であって、同性愛者ではない」というのであれば、それもおかしな話です。異性愛者であれば無条件に「セックスをとりあえず経験しておくこと」が良しとされるのは何故でしょうか?

 putchee-oya氏の主張は暗に「セックスを経験したことがなければ、それへの好悪は判断できないだろう」という経験主義に基づいていますが、これを是とするなら、セクシュアリティを自称すること自体が怪しくなってしまいます。putchee-oya氏は、童貞の中に同性愛者や無性愛者が含まれていることすら想定しておられません。
 もちろん、セクシュアリティの自称が実際に怪しい「こともある」のは確かです。しかし、セクシュアリティは個人の身体の自由を根本的に保障するものの一つであるからこそ、多少怪しい場合があろうと自称が優先されるんです。ヘテロセクシャルにおいても「セックスが嫌いだ」という自称を「経験がないから」の一言で無視されてはたまりません。

 おそらく、putchee-oya氏は「そこまで大袈裟なことを言っているつもりはない」と思われるでしょう。確かに発言自体は妥協的で穏やかなものです。しかしながら、絶対値は小さくとも方向性は何も違わないんです。そして、「性的な自認を、経験がないことから無視する」という発想は、性行為未経験者に対し「性行為に関する好悪を主張したければまず経験しろ」と迫ります。この圧力こそ、性行為未経験者の自己承認を妨げ、「童貞をこじらせる」根本要因の一つとなっているんですよ。


 

(※ 2月16日追加更新)
 putchee-oya氏への返信記事は、追記という形にさせて戴きます。

 まずはputchee-oya氏、丁寧なご返答をありがとうございます。引用部の書き換えについては、論点がずれて却って誤解を招いたと思います。この点については反省するとともに、中傷めいた書き方になったことをお詫び致します。
 これらを踏まえた上で、前回話し切らなかった部分について、改めて述べていきたいと思います。

おれは、非モテの人たちが言うところの、「セックスが嫌いだ」「異性とのセックスはしたくない!」って明確な主張(つまり「断食」)がどこから生まれてきているのか、ちょっとわからないんですよ。id:crowserpentさんが言うところの「セックスが嫌いだというセクシュアリティの自称」ね。それを一種の性癖、性的関心だと捉えることができれば、さっきの同性愛がなんちゃらという書き換えのことも理解できるんです。ああ、「セックス嫌い」の人に「セックスしてみれば? してみるといいことあるかもよ」って言ってるわけなんだから。

単に異性とセックスする機会に恵まれず、童貞のまま悶々としたのち、女性嫌悪などが生まれてしまう。セックスレスの状態が先にあって、そこから導き出される結論としての「セックス嫌い」って、性的嗜好じゃないと思うのよね。単に童貞をこじらせてるだけ。そんなの、セックスしてみたら考えが変わるかもしれないじゃん、とか。

 これがputchee-oya氏の反論のいわば核心部分であり、そもそもの主張でもあります。
 非モテの人の性嫌悪が、同性愛者などのセクシュアリティとは別物であることは私ももちろん承知しています。前回の私の記述で一番問題なのは、これを明記しなかったことですね。(この点でputchee-oya氏のご指摘には感謝。)
 私が反対しているのは、「そんなの、セックスしてみたら考えが変わるかもしれないじゃん」という部分なんですよ。「童貞をこじらせている」人達に「セックスを経験すること」を勧めたところで実際にセックスを経験しても何ら問題は解決しない、というのが私の主張なんです。以前の記事で述べたことの繰り返しになりますが、「童貞をこじらせている」人達は「性のヒエラルキー」を自明としており、それが「こじらせている」根本的な原因です。それさえなければ、セックスの相手が居るとか居ないに関わらず、女性憎悪などに結び付くことはありません。

 もし、現実の性行為によって「性のヒエラルキー」を自分で相対化できるようなら、putchee-oya氏の「セックスしてみたら考えが変わるかもしれないじゃん」というアドバイスも意味があると言えます。しかし、私にはとてもそうとは思えないんですよ。

んで、「おれは童貞だ! だからというわけではないが、セックスは嫌い!(以下ぐっちゃらぐっちゃら理由)」って書いてあるのを見ると、ガキだなぁ、と思うわけ。大人の男性としてのゆとりもエレガントさもない。ワールド、オブ、エレガーンス。

 あえて言うなら、この「大人の男性のエレガントさ」というのは「性のヒエラルキー」の一部をなすものです。そして、「童貞をこじらせている」非モテ達は、このようなヒエラルキーに囚われて「大人の男性たれない自分」に対して自己嫌悪に陥り、それがひっくり返って他者(女性)への憎悪に向かうわけです。バカバカしいと思いますが、これをバカバカしいと言っても始まらないんですよ。
 というわけで、彼らに「エレガントな大人の男性になれ」と言っても何の意味もないんです。なぜなら、「エレガントになりたい(=ヒエラルキーの上位に立ちたい)」と思っている限り、彼らは絶対に「エレガント」になどなれないからです。この「エレガント」を他の形容詞に変えても同じことです。

 要は、「自分がガキであること(=大人の男性として不全であること)」なんかに拘らないことです。「男性として格上でなければならない」などと思わないことです。単に「自分は恋愛が苦手(または怖い)だからセックスに無縁です」ということを素直に認めればいいだけの話なんです。それさえ分かれば、わざわざ苦手なものを無理してセックスしようとする必要もないんです。
 私が「セックスしてみればいい」という解決策に強く反対するのは、これが既に「性のヒエラルキー」の中に組み込まれてしまっているからなんですよ。「セックスを経験した俺はヒエラルキーの階段を上がれた、俺は男だ!」とか「セックスはしてみたものの、やっぱり俺は駄目人間だよ、鬱だ…」となってしまったら意味ないわけです。そして、「性のヒエラルキー」を自明とする限り、性行為にはこのような意味付け(レッテル貼り)がされてしまいます。

 「性のヒエラルキー」を性行為の実体験によって崩そうとするのは、あまりにも短絡的で危険なんです。