「恋愛」の耐えられない軽さ(2)

 ここしばらく多忙だったため遅くなりましたが、前回の続きです。
 まずはMaybe-na氏の返信記事から。

うーんと、実はモテとか非モテの人が言っている「承認」って言葉の意味が私はよくわかっていなくて、あえてその言葉は使わなかったんですよね。「承認=自分の価値観を支持してもらえること」だと思うのですが、恋愛とか性愛は、その巧拙に関係なく「承認のための道具」としても機能しないのではないか、という疑問があるんです。
モノガミーのヘテロを例に挙げて説明しましょう。
男A「諸君、私は女が好きだ。(とりあえず手の届く範囲で今のところは)とりわけBさんが一番セクシーだと思う」
女B「諸君、私は男が好きだ。(とりあえず手の届く範囲で今のところは)とりわけAさんが一番セクシーだと思う」
このように、AさんとBさんの嗜好が一致することでカップルが成立するわけです。しかし、ここでAさんはBさんの「男好き」という価値観を支持しておらず、BさんはAさんの「女好き」という価値観を支持しているわけではありません

 「承認」という言葉を 「自分の価値観に共感してもらえること」 と解すればMaybe-na氏の言われている通りで、「恋愛」はその道具にはなり得ません。しかし、承認と共感とは、必ずしもイコールではないんですよ。

 例えば「劇場型犯罪」といった例を挙げてみましょう。
 「劇場型犯罪」とは、直接的な利益ではなく、「自分が起こした犯罪が世間に認知されること」を目的とする犯罪です。ここで犯人が求めているのは、「世間に注目される」という形での「承認」ですが、ここには犯人と世間との間に「価値観の共有」はありません。価値観が共有されているか否かと、承認されるか否かは別の問題なんです。

 また、前回「承認を得るための媒介」として「貨幣」を挙げましたが、これも同じです。物々交換で物品を得るには、相手からの承認がなければ取引が成立しません。それに対して、貨幣が広く流通する社会では、貨幣さえ持っていれば誰でも買い手として承認され、貨幣の持ち分に見合った交換が可能になるわけです。(この場合でも、価値観が共有されている必要はありません。)

 私が前回述べた「承認」とは、このような幅広い概念を指すものだと考えてください。恋愛で得られる「承認」も、必ずしも価値観を共有していなくとも成立するような「承認」なんです。

「私」が好きなのは「あなた」で「あなた」が好きなのは「私」であり、「私」と「あなた」が別人である以上、価値観の完全な共有はありえません。なので、恋愛から承認が得られるという考えには納得できません。しかし、これが同じ趣味を持った仲間に認められるのが嬉しい、というのならば、ある程度は理解できます。でもそれは、ほどほどにしておいたほうがいいと思いますけどね。どこかで無理をしているのだから。

 「承認」を「共感」の意味に取るならば、Maybe-na氏の指摘はまさしくその通りだと思います。「恋愛」は「共感の道具」としては何ら機能しません。「恋愛」は、相手への共感を深めるようには出来ていないんです。

 では、「恋愛」によって得られる「承認」とは、どのようなものなのでしょうか?



 これを考えるために、まず「なぜ恋愛と性愛は連続的なものとされるのか?」を考えてみましょう。

 通常、人間は誰でもとは性交渉を持たず、特定の限られた相手としか性行為を行いません。「何故そうなのか」はひとまず置くとして、この事実が、他の類人猿と異なる人間独自の性文化を作り上げてきました。性行為の相手を限定することで、性交渉は人間にとって、特別に親密な関係を意味することになったんです。(売春がタブーとされるのは、この原則に逆らっているからです。)

 ここでごく単純に考えれば、「性交渉の相手を見つければ、それだけで特別な承認が得られる」ということになります。しかし現実には、誰でもいいから性交渉に誘えばいいわけではありません。それでは「特別な存在」にはなれないんです。ではどうすればいいか? 性交渉を結ぶにあたって、「私はあなたをかけがえのない存在として認めますよ」ということを何らかの形で示さなければならないんです。

 これが「恋愛」という形式の正体です。
 すなわち「恋愛」という形式は、「自分は相手にとって特別な存在である」ということを確認するため、ただそれだけのためにあるんです。「共感」が恋愛に発展する場合もありますが、その場合でも「共感」は確認のための道具の一つでしかありません(「こんなに多くの価値観を共有してるんだから、あなたは私にとって特別な存在だ!」)。

 これで、私が前回「恋愛は承認のための道具である」とした理由がお分かりいただけると思います。
 「恋愛」の機能は、一定の手続きを踏むことで性交渉に至る道筋を作り、かつ「性交渉が特別な関係性を意味する」ことを保障する(思い込ませる)ことにあります。「恋愛」とは、「性的に認められたい」人のためのコミュニケーション・ツールであるわけです。従って、「恋愛」が「価値観の共有」を保障しないのは当然のことなんですよ。