「意味の変容の場」としての「非モテ」

 過去の「非モテ」という言葉のネット上での変遷については、以前「『非モテ』の変質と電波男」で述べた通りなんですが、今回はこれを「現在の『非モテ』の意味」と重ね合わせながら改めて見ていきたいと思います。

 まずは、件の記事での「非モテ」の説明を再掲しておきます。

非モテ」という用語はもともとはお笑いネタ系のテキストサイトにおける「芸風」の一つでした。それがどんなものだったかは、クリスマス殲滅委員会(1999年)などにその片鱗を見ることができます。

 当時の「非モテ系」は、「自分がいかにモテないか、女性に嫌われているか」を面白おかしくネタにするという「自虐芸」だったんです。このような芸風が成立するためには、「クリスマスにネット見てるような輩は(自分のように)モテない男ばかり」という暗黙の前提を、演じる側も見る側も共有していることが必要でした。
非モテ系とは「ネガティブを装うというお約束」であって、いくらモテないことを嘆いてもそれを機に行動を起こそうとする人は居ないんですね。即ち、ネット上でモテないことを嘆いている空間は実はそれなりに(恋愛なんかしているよりも!)居心地の良いもので、それを「お約束」で言わないことにしていたわけです。

 この時私は、テキストサイト全盛期当時(1999〜2002年頃)の「非モテ系」に参加していた人達の大半は「元々あまり恋愛に積極的でない」あるいは「恋愛自体には実はあまり興味がない」人達だったと考えており、そのように記述しました。ですが、この考え方はあまり正確ではなかったのではないか、と最近思うようになってきました。

 以前に書きましたが、私は「クリスマス殲滅委員会」のページを目にするまで「クリスマスは恋人と共に過ごす日」という風潮を全く知りませんでした。最初から「恋愛自体に興味がない人」というのはおそらく私と同じように、「クリスマスやバレンタインなど知らないうちに過ぎている」方が圧倒的に多いでしょう。だとすると、「非モテ系の自虐芸」を始めた人達は、元々は「恋愛」にそれなりの執着を持っていたと考える方が自然です。

 しかし、それにも関わらず、「非モテ系」に参加していた人達の間には「恋愛よりも居心地の良いネット空間」を楽しむ空気が醸成されていたように思えます。あくまで個人的な印象に過ぎませんが、「恋愛に対する強い執着」を感じることはほとんどありませんでした。最初は「恋人がいなくて寂しい」という感情の吐露であったかもしれませんが、それらは語られるうちに変質していった、ということでしょう。
 すなわち、「語ることの出来る場」が意識の変容をもたらしたわけですね。この見方が正しいとすれば、「恋愛に対する執着」や「モテないことに対する疎外感」は、「場」によって容易に変容する流動的なものだ、ということになります。



 先の記事中でも述べているように、このようなタイプの「非モテ系」ネタ文化は、ネットユーザーの多様化に伴って衰退しました。「執着」や「疎外感」をずらす場として「非モテ系」が機能しなくなったんですね。なぜそうなったのかを、ここでもう少し詳しく見ておきましょう。

 「非モテ系」は「恋愛経験が全くないか、殆どない」タイプの人を前提にした「自虐芸」であり、「恋愛に積極的で、恋愛に触れる機会の多い人」の参加が想定されていませんでした。「休日にネットでテキストサイト見てるような奴は非モテ」という自虐的な決め付けが、それなりに説得力を持っていると思われていたからです。
 ところが、実際にネットユーザーの幅が広がってくると、「恋愛に積極的な人」の参入は新たな問題を引き起こします。「恋愛に積極的な人」は、「恋愛」をネタ化することが出来ないんですね。

 裏返せば、「恋愛経験が殆どない」かつての「非モテ系」の人達は、恋愛経験がないが故に「恋愛(できないこと)」を容易にネタ化することができたわけです。ところが、ある程度以上の恋愛経験を持っている人の場合、それらの恋愛経験の記憶があるが故に、「恋愛」に自分なりの固定的な意味付けをしてしまいます。その分「恋愛の意味をずらす」ということが難しくなるわけです。
 そうした人達は「モテないことのネタ化」の意味を理解できず、自虐芸に対して「マジレス」を繰り返してしまうことになります。こういう人がごく少数の時は「空気読め」で済んでいたものが、大勢を占めるようになってくるとそれでは済まなくなり、結果として「非モテ系」全体の衰退を招くことになったのでしょう。

 そう考えると、今の「非モテ」がかつてよりずっと「恋愛」に執着しているように見えるのは、ネットの「非モテ」を名乗る人達そのものが大きく変わったわけではない、と推測することができます。ネット上に「モテないこと」を「ネタ化」させる効果的な場が失われた結果、そのように見えているに過ぎない、と考えられるわけです。

 少し余談になりますが、古澤克大氏の「革命的非モテ同盟」は、このかつての「非モテ系」に通じるものがあると私はこれまで思ってきました。「共産主義ネタ」という新たなネタのジャンルを開拓することで、再び「恋愛に対する執着」や「モテないことへの疎外感」をずらす場として機能し得るのではないか、と。そして、バレンタイン爆砕デモなどに見られるように、その評価は必ずしも間違いではなかったと思っています。
 しかしながら、この方法ではやはり「恋愛経験があるが故に、恋愛を固定化して見てしまう人達」を排除せざるを得ない、という問題が残ってしまいます。そしてこれでは結局、「非モテ」自体を固定化することにも繋がってしまうんですね。


 ともあれ、「執着」や「疎外感」が「場」によって比較的容易に変容し得る、と分かれば、「執着や疎外感を単純に固定化して考えること」に意味がない、ということも分かります。そして、それらの意味が変容していくためには「適切な場」が必要であることも理解できるはずです。
 これらを踏まえた上で、前回の続きである「恋愛というフレーム」の問題について、次回から見ていきたいと思います。

背後にある「恋愛についてのフレーム」問題

 一つ前のエントリの書き直しです。(前エントリはあまりにピント外れだったので削除しました。)

 森岡正博氏の「モテ論」をめぐる前回までの話について、掲示板での議論を踏まえて再度まとめてみることにします。
 森岡氏の元々の命題は、このようなものでした。

モテる男とは、「一人の女を心から大切にできる男」のことであり、つねにいろんな女と恋愛・性愛状態になれる男のことではない

 森岡氏は前者を「モテ・3」、後者を「モテ・1」とし、「モテ・3」こそが望ましい状態(真の「モテ」)であると見做しています。また、「モテ・1」は「モテ・3」とは相反する場合が多いのではないか、とも述べています。
 これだけだと曖昧で、何のことを言っているのか分かり辛い。そのためにこの言葉の「解釈」をめぐって齟齬が起きているのだろうと私はこれまで考えてきました。しかし、問題は全く別のところにありました。

 「モテ・1を目指している男性」とはどんな状態か、をまず考えてみます。すると、「相手が誰であるかに関係なく、色んな相手と恋愛状態になれること」を希求しているわけですから、特定個人に対する「特別な感情」があるわけではない、と言えます。すなわちこれは「恋愛したいという感情」はあるが「恋愛感情」はない、という状態です。
 次に、「モテ・3の状態にある男性」はどうか考えてみます。「一人の相手を心から大切にすることができる」というのですから、これは「恋愛感情に基づいている」と見做せます。

 「恋愛したいという感情」は「恋愛という観念」に対する欲求であり、具体的な相手は存在しなくても発生するのに対し、「恋愛感情」は特定の相手が居なければ成立しません。「感情」という言葉はかなりあやふやなものですが、上記の定義で一応問題なく話は通じると考えて、話を先に進めます。

 問題はこの両者がどのような関係にあるか、です。
 「恋愛したいという感情」は、模倣欲望によって発生します。恋愛漫画や恋愛をテーマにしたドラマなどに影響されて、あるいは周囲の恋愛中の人に刺激されて「恋愛したい!」と思うことは、特に若年ではよくあります。一方、「恋愛感情」は特定の相手との出会い、または関係性の構築途上で偶発的に発生します。
 私はこの両者を「基本的には別物」と考えていました。それに対し、イカフライ氏はこれを「段階」として捉えておられるように思います。この捉え方の違いで、森岡氏の言説は見え方が変わってきます。



 まず、「恋愛したいという感情」と「恋愛感情」を全くの別物と考えるとどうなるか、を述べていきます。

 先に述べたとおり、「モテ・1」を目指すということは「恋愛したいという感情」に基づいています。これを元に実際に「モテ・1」の状態に至ると、「恋愛したいという感情に基づく恋愛関係」が成立するわけです。これは「恋愛感情に基づく恋愛関係」と違い「相手を真に愛することが出来ないのではないか」というのが森岡氏の主張でした。
 従って「恋愛感情に基づく恋愛関係」の中で「一人の女を大切にすることが出来る」男を目指せ、というのが森岡氏の提言になります。ところが、こうして目指すものを変えたとしても「恋愛したいという感情」に基づいて「恋愛」を希求している、という構造自体には何の変わりもありません。
 「恋愛したいという感情」のみに基づいて「恋愛を目指している」限り、目指すモデルが違おうと本質的には同じことではないのか、というのが森岡氏の提言に対する私の問題意識の骨子でした。

 次に、これらを別物ではなく「段階として」捉えるとどうなるか、を考えてみます。

 これは、「恋愛したいという感情」は真の「恋愛感情」への途中段階である、と見做すものです。この考え方では、「恋愛したいという感情」に基づいて「恋愛」を希求すること、それ自体は問題になりません。正しく「恋愛」を希求することによって、「真の恋愛」へと自然にステップアップ出来ると見做されるからです。
 ただし、いつまでも「『恋愛』という観念に憧れるだけ」のまま留まっていてはいけないので、もっと現実的な恋愛観へ目標を変える必要があります。それによって、「相手を大切にすることが出来る」ような恋愛関係を作れる、と見做されます。イカフライ氏の「恋に恋する概念をもっとリアルにしましょう」という解釈は、おそらくこういうことでしょう。

 これは、森岡氏の言説の解釈の問題というより、それ以前の「恋愛」をめぐる考え方のフレームの問題のように思えます。森岡氏の言説は一定の「恋愛についてのフレーム」を前提として成立しているため、そのフレームを無視して解釈すると意味不明になるわけです。
 私の当初の批判は、森岡氏が「恋愛についてのフレーム」を改変パラダイムシフト)しよう、または問い直そうとしてそれに失敗している、という想定に基づいていました。しかしこれがそもそも間違いで、森岡氏の言説は「恋愛についてのフレーム」を大前提とし、その上に乗って成立していたわけです。そのため、イカフライ氏との論争は森岡氏の言説そのものについてではなく、「恋愛についてのフレーム」の是非をめぐるものになっていたと考えられます。

 ここで言っている「恋愛についてのフレーム」とは、「『恋愛したいという感情』は恋愛感情へと移行できる、または移行すべきものである」という前提のことを指しています。考えてみれば、これはある意味では当然の前提です。この前提がなければ、「恋愛したい人達」は「恋愛のための努力」が出来なくなるんですね。

 ここから新たに論を進めることはせず、まずはここまでにしておきます。

「非モテ」に「モテへのアドヴァイス」が無効である理由

 前回の記事について、muffdiving氏から詳細な批判があったので、お応えしていきます。

 まず先に言うと、muffdiving氏の批判は基本的に正しいです。前回の記事はちょっと「非モテ」側に寄って読み込み過ぎだったので、その点を指摘されるのは尤もなところですし、論旨とずれている記述もありました。それらとは別に「結論」をきちんと読み取って戴けたことには感謝します。

 前回の記事の最もおかしな点は、私が「非モテ」を前提に話をしようとしていながら、「非モテ」についての説明を欠いていたこと、森岡氏の言説の「通常レベルでの妥当性」と「非モテレベルでの妥当性」の区別をしていなかったことでした。なので、(前回の反省も込めて)今回はまず「非モテ」を名乗る人達の特徴から話を始めようと思います。



 「非モテ」の由来については以前にも語ったことがあるのですが、そこでは「恋愛(交際)経験がなくモテない人の自称」と定義していました。しかしこの認識だけでは不充分であり、もう少し踏み込んで述べると次のようになります。
非モテとは、恋愛経験がなくモテない人であり、かつ、自己評価が低くコミュニケーションに自信がない人のことである。そして、両者は補完関係にある。
 非モテ男性喪男の一部がミソジニーに陥るのは、この「自己評価の低さ」の裏返しという面があります。要するに「自信がないから(あるいは怖いから)攻撃的になる」ってことですね。もちろん褒められたことではありませんが、こうした特徴を認識しておくのは重要です。
 もっとも、攻撃的になる「非モテ」はあくまで一部です。しかし、攻撃的でない「非モテ」も、「恋愛」に対する「恐怖」の量自体は「ミソジニー喪男」と実のところ大差ありません。

 彼らの多くは、「恋愛経験がない」ことと「自己評価が低く、自信がなく、コミュニケーション能力が低い」ことをセットで考えています。逆に言えば、充分なコミュニケーションスキルがあって自己評価が高く、豊かな人間関係を築いている人は、たとえ恋愛経験がなくとも「非モテ」にコミットしないんです。反対に、たとえ恋愛経験があっても、コミュニケーション能力が低く(自分でそう思っているだけ、というのも含む)自己評価の低い人は「非モテ」に共感しやすい傾向があります。

 このことを念頭に置きながら、muffdiving氏の「修正モテメソッド」を見てみてください。

 相手に好意を寄せられたいんだったら、まず相手がナニを求めてるのか相手の立場に立って観察することが最低条件で、その上でどういう振る舞いをすれば相手の好感度が上がるかという戦略を立てて相手にそう振舞うことで、相手の気を引くことがやりやすくなる。そして、相手の気持ちを観察することで、相手が自分に対してどういう気持ちかを把握できるわけなんで、あまりにも脈がないときは引き、他の相手を探すという選択もある。
 失敗経験も自分の実にして、それを繰り返していくうちに、コミュニケーションスキルが向上し、ゲットしやすくなる。

 ここでは「相手の気を引く」ことが大前提になっていて、はっきりそう明記されています。つまり、最初から「恋愛関係に至ることを目指してトライ&エラーを繰り返せ」と言われているわけです。この点はもちろん森岡氏の元々の「モテメソッド」も同じです。

 「コミュニケーションスキルはトライ&エラーを繰り返すことで上達する」というのは全くその通りなんですが、「恋愛」という要素が入った場合、「非モテ」にとっては大問題となります。なぜかというと、彼らが「恋愛経験」と「自己評価」あるいは「自信」を連結して考えてしまっているからです。

 元々、安定した信頼性の高い人間関係を築いている人は、恋愛の「失敗」に対しても比較的容易に立ち直ることができますし、それによって自己評価を大きく下げることなく適度に「反省」して次に生かすことができます。そういう人は、「恋愛」に全てを賭けるといったことをしないため、恋愛に過度に依存することも少ないと言えます。
 ところが、「非モテ」の多くは元々の人間関係に不安や不信があるため、そのように考えられない場合が多いんです。彼らは、「恋愛」を「自己評価を高めるためのステップアップ」のように考えてしまうことがしばしばあります。その結果、恋愛の「成功・失敗」を自己評価に直結して考えてしまうんですね。「非モテ」が「恋愛の失敗」にやたら拘るのはこれが原因です。「恋愛」に自分の実存を賭けてしまうため、0か1かの見方しか出来なくなってしまうわけです。

 こうした考え方のおかしさは押井徳馬氏の記事でも指摘されている通りなんですが、「恋愛経験」と「自己評価」を繋げて考えるということを止めない限り、なかなかこの手の発想からは抜けられません。
 「恋愛」によって「自己評価を高めよう」という発想の行く先には、「恋愛依存」という落とし穴が待っています。「愛されているから自分には価値があるんだ」と考えてしまうことで、「恋愛に失敗すれば自分は無価値である」という恐怖を新たに生み出してしまうわけです。これがどのような弊害を生むかは、敢えて説明する必要はないでしょう。「非モテ」が「恋愛できれば解決する」とは言えない所以です。

 「そんな奴が恋愛しようなんて思うこと自体駄目だろ」と思った方、大正解です。非モテ」に恋愛を勧めてはいけません

 とはいえ、コミュニケーションのトライ&エラーを繰り返さないことには、「相手を大切にするためのスキル」を学びとることも出来ませんし、自己評価を適切なレベルに引き上げることも難しいわけです。だとすれば、それは恋愛以外の場から学ぶしかありません。すなわち、非モテ」は「恋愛を諦める」ことからスタートしなければまともな恋愛には至れない、ということです。そのためには「一人の相手だけを大切にしよう」というアナウンスはまずいわけですね。



 森岡氏はアドヴァイスする相手を間違えているのではないか、と私は思っています。

「恋愛したい」「モテたい」と心から思っている男の子に対して、私はアドヴァイスをしてあげたい。(これはモテなかった若き日の自分自身に対するunfinished businessという意味もあるのだろうと私は思っている)

 「モテなかった若き日の森岡氏」が抱えていた問題と、今の「非モテ」を名乗っている人達が抱えている問題は、おそらく全く別のものです。若い頃の森岡氏は、上で述べたような「非モテ」では元々なかった(それなりに自己評価が高くコミュニケーションスキルもあった)のではないでしょうか?

 そもそも「恋愛したいと心から思っている」とはどういうことでしょうか? 特定のある相手と「恋愛関係を築きたい」というのなら分かります。しかし、特定の相手が居るわけでもないのに「恋愛したい」とは? その「恋愛」とは一体何なのでしょう?

 muffdiving氏は以前の記事で、次のように述べておられます。

 基本的に恋愛したいからじゃなくて、その人が好きで付き合いたいっていうモチベーションが昂じて恋愛になると思うのだが、どうだろうか。

 その辺抜きにして恋愛煽るマスコミにはちょっと違和感感じてるんだよな。
 正直言って、「恋に恋してる」のはティーンエイジャーだけで十分だと思うし、いい年こいてそれじゃ痛いって。
 何か「恋してる自分が好き」って感じだしね。むしろ「あなたが好き」が原動力にならなきゃただのオナニーだと思うが、どうだろうか。

 これに私も全く同感なんですが、森岡氏にはこの視点が欠けているように思えます。
 「恋愛したいと心から思っている」と思っている人達とはどんな人達でしょうか? 「非モテ」を含め、概ねこうした「恋に恋してる人達」ほど、「自分は恋愛したいと心から思っている」と考えがちです。とすれば、このような人達に「恋愛するためのアドヴァイス」なんて要らないでしょう。「恋に恋してないで別のことすれば?」とでも言えば済む話です。

 森岡氏のようなアドヴァイスは、有効な場合ももちろんあります。たとえば、恋愛関係にはあるものの、「恋愛の形式」だけを重視してお互いのことを充分に理解しようとしていない場合や、恋愛関係が長続きしない、といった悩みなどです。しかし、「恋愛」にほとんど触れてもいない状態で「恋愛という名の重圧」に悩んでいる「非モテ」に対して、それらと同じアプローチでは意味がないわけですね。

 今回の話は、「非モテ」が内面化している恋愛至上主義の解説でもあります。森岡氏が問題にしておられる「恋愛至上主義に加担せずに『恋愛』を支援する」という立場にとって、何らかの示唆になれば幸いです。


今回のまとめ

      • 非モテ」とは、「恋愛経験の低さ」と「自己評価の低さ・自信のなさ」を繋げて考えてしまってる人達です。
      • 非モテ」にとっての「恋愛」って、自己の再確認のための道具でしかないんだよね。
      • 非モテ」は「恋愛以外の場」でトライ&エラーするしかない。とりあえず恋愛は脇に置いとこうよ。
      • 特定の相手もいないのに「恋愛したいと心から思ってる」ってお前それ、恋に恋してるだけだろ。
      • 森岡氏のアドヴァイスは、「既に恋愛関係にある人達」に対してはおおいに有効です。



コメント欄の議論が長くなっているので、場を掲示板に移します。議論に参加しておられる方は、お手数ですが移動お願いします。



(7/13 追記

 この記事の記述は、森岡氏の言説に対する誤った解釈に基づいて書かれている可能性が高いです。こちらの記事を参照してください。

モテへのアドヴァイスは成立しない

 「モテ」に関する森岡正博氏の新たなエントリに対して、あの「もてない男」の小谷野敦氏が言及しておられるようです。

私の言うモテとは、次のことである。「モテるとは、自分のほんとうに好きな一人の女から特別な好意を寄せられることである」(←ここ変更しました)。そしてこのような意味でモテるためになすべきことは、「その一人の女のことを心から大切にしたいと思っている」というメッセージを、その女のもとに届けることである。そのときに、注意しておかなければならないことがいくつかある。たとえば安全の確保、女の身になって考える、話をよく聴く、そしてその女ひとりだけに集中する、などである。これらについてのさらに詳細なアドヴァイスは、男の子たちにとって有益であろう。(キモい顔はさほど問題ではない)

モテる男とは、このように考えることができ、このように行動することができる男のことだ。
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070609

 森岡正博、偽善家ぶりはまったく治っていない。「好きな女の子を心の底から大切にしてあげればその子から好きになってもらえる」なんて、昭和三十年代の若者が信じて裏切られた真っ赤な嘘ではないか。もう、そういう偽善に耐えられないから対談は断ったのである。

 だいたい、タバコの煙が嫌だから対談を断るなんて、「無痛」を選んでどうするんだ。苦痛にまみれつつ生きていくのがまことの生ではないのか、森岡
『さっそく小谷野先生が反応してくれてます。小谷野先生も、まったく偽悪家ぶりは健在ですね。引用された命題は、けっして真っ赤な嘘じゃございませんよ。冷静に人間観察すればそのくらいのことは分かるもの。小谷野さんが対談を断わったときに、編集者に言った理由というのも、実は私はちゃんと聞いているんですけどね、うふふ。あと、「無痛」に関しては、典型的な誤読コメントだね。』 (2007/06/11 22:30)
(G★RDIASでの森岡氏のコメントより)

 両氏は「もてない男」の時点で何やら因縁がある模様ですが、どうでもいいことなので省きます。

 小谷野氏の指摘は的確だと思います。昭和三十年代の若者が信じたかどうかはともかく、「〜していれば自分のことを好きになってもらえる」という命題は一般的には全て誤りです。(もちろん、厳密に考えれば、の話ですが。)
 森岡氏はそれに対し、「冷静に人間観察すればそのくらいのことは分かるもの」とコメントしています。森岡氏には「好きな女の子を心の底から大切にしてあげることで、好きになってもらう」自信があるんでしょう。これは、「冷静に人間観察すれば相手の感情を操作できる」と言っているに等しく、どこからそんな自信が生じるのか私には全く理解できません。


(※ この部分について、muffdiving氏から「元記事の内容を捻じ曲げている」との指摘がありました。確かに、この部分を「文字通り」に読むのは文脈からいって間違いです。誤解を招く表現をしたことをお詫びします。)

 まぁ、さすがにこれは言い過ぎだと思うので、もう少し穏やかに解釈してみましょう。
 森岡氏の述べていることを、
  1. 冷静に人間観察すれば「相手を心の底から大切にする」ことができる
  2. そうすれば、相手から好きになってもらえる確率が高まる
くらいに解釈すれば、これは必ずしも間違いとは言えません。(それでも厳密に言うと、1.の命題はやや怪しいんですが。)
 ここで一つ重要なのは、「好きになってもらえる確率」を100%にすることはできない、ということです。「好き」という言葉をどう解釈するかにもよりますが、一般的な恋愛感情の意味で解するなら、これは50%にも満たない場合が普通でしょう。1%もない場合だって珍しくありません。

 確率が低くても「恋愛」がきちんと機能するのは、恋愛している人達が「失恋から立ち直って、新たな相手に恋をする」ということを繰り返すことが出来るからです。要するに、相手を一人に限定していないから「恋愛」が機能するということになります。もちろん、「恋愛をしている最中」には人はそんなことを考えません。「恋する相手はその人一人だ」と考えるわけです。これは、「恋愛」を円滑に進めるための、自分に対しての嘘です。
 こういうことは「恋愛」に限らずよくあります。100%うまくいくとは限らなくても、「絶対うまくいく」と信じ込んだ方が「うまくいく」確率は高まる、というような場合ですね。

 「その相手ひとりだけに集中する」という森岡氏の前提は、ここで既に崩れています。あくまで「恋愛関係の成立」を目標にするのであれば、どこまでも一人の相手だけに集中し続ける、ということは成り立ちません。それに目を瞑って初めて、森岡氏の命題は成立するわけです。



 ここまでは「恋愛は常にうまくいくとは限らない」という、いわば当り前のお話です。だとすると、たとえ恋愛関係の成立に寄与しなくても、「相手を心から大切にする」ことには意味があるんでしょうか? これが、私が森岡氏に問いたい問題の核心なんですよ。

 森岡氏の論理は「相手を心から大切にすれば、恋愛関係が成立する可能性が高まる」というものです。これを裏返せば、「恋愛関係が成立する可能性がないなら、相手を心から大切にする必要はない」ということになってしまいかねません。喪男板の論理は正にこれです。) 森岡氏はそれでもいいんですか?

 「恋愛関係が成立する可能性」は、おそらく森岡氏が思っている以上に「場」と「偶然」に大きく左右されます。その中でたまたま「失敗」を重ねた人達に「こうすれば次は必ずうまくいく」という理屈が通用するとは、私には到底思えません。

 しかしながら、「相手を心から大切にする」ということを繰り返していけば、別に恋愛関係が成立しようとすまいと、新たな開かれたコミュニケーションに踏み出せる可能性はあるわけです。その「可能性」は、恋愛関係の成就の確率よりもはるかに高いでしょう。だとすれば、「恋愛関係の成就」を最初から前提して語る意味がどれほどあるでしょうか?
 そもそも「恋愛関係」とは何のためにあるのでしょう? セックスのためにあるんですか? 私は違うと思います。以前にも述べた通りですが、「特別な相互承認関係」すなわち「お互いを深く理解しあう」ことにこそ「恋愛」の意義がある、と私は考えます。それなら、「恋愛」でなくとも「お互いを深く理解しあえる」ようなコミュニケーションを探ったって良いわけです。特に「恋愛という形式」に肌の合わない人達は、「恋愛」を前提にしない方が断然「深く理解しあえるコミュニケーション」がしやすくなると言えます。その上で「恋愛関係」を構築した方がよりお互いにとって良いと思えば、そうすれば良いだけの話です。

 このように考えるなら、「一人の女だけを大切にする」という前提は意味がなくなります。自分の周りの人達を、自分が出来るだけ大切にすれば良いでしょう。「一対一の特別な関係」という「恋愛の形式」に拘っていては、かえってコミュニケーションの可能性を狭めるだけではないでしょうか?


追記・今回のまとめ
 毎回記事が長すぎて読み辛いので、今回のポイントを簡単にまとめておきます。長文読むのだるい、という人向け。

      • 相手を心から大切にしたからといって、恋愛関係になれるとは限りません。
      • 「相手を心から大切にすれば好きになってもらえる」 なんて言うと、ルサンチマン全開の人達が 「してみたけどやっぱり駄目じゃんか。もう相手を大切にしようなんて思わねーぞ」 って吹き上がっちゃうよ?
      • でも、恋愛関係にはなれなくても、 「相手を心から大切にする」 ことには意味があるよね。
      • それだったらもう 「一人の相手だけ大切に」 しようとしなくてもよくね? みんな大切にしようよ。いきなり恋愛関係になんてなれる訳ないんだし。どうよ?


(6/14 追記
 この記事についてmuffdiving氏から詳細な批判がありました。
 批判内容には基本的に同意します。(明らかに誤りのある部分は本文中に訂正を入れています。)その上で新たに記事を上げたので、そちらの方をお読みください。

 なお、muffdiving氏に指摘された点のうち以下については、訂正は入れていません。
 失恋して、立ち直って新しい相手探す時点で前の「恋愛」はクローズしてると思うんだが。
 並行処理してるわけじゃないから「相手を一人に限定してない」って理屈はおかしいよな気が。
 これは、私がきちんと前提条件を説明しなかったためにおかしな理屈になったものですが、森岡氏の言説自体を歪曲しているものではないと考え、訂正は入れませんでした。ご理解戴けると幸いです。

(7/13 追記

 この記事の記述は、森岡氏の言説に対する誤った解釈に基づいて書かれている可能性が高いです。こちらの記事を参照してください。

愛の許し

 モテのパラダイムシフトの話の続きなんですが、森岡氏の「モテ定義」からは離れます。

 森岡氏の言う「恋人として大切にする」ということが不可能だとするならば、「非モテ」にはどんな選択肢が有り得るのか。今回はそんな話から始めてみることにしましょう。
 まずは、前回の記事に対するイカフライ氏のコメントから。

 烏蛇さんにせよ、他の非モテさんにせよ「女なら誰でもいいわけじゃない、むしろ、そういう軽薄な関係じゃない相手が欲しいんだい」
と一見言っているようだし、それはホンネでしょう。
ただそれは「自分が誰かを愛し、想い、その人のために何かをしようとする」といった相手に対する切実は思いが見えないのです。
 そういう事を言っているんですけれどね。

 「非モテ」の人達がなぜ「愛する」ことが出来ないのか、それは前回も述べた、「恋愛の排他性」として考えることができます。このことを、もう少し詳しく見ていきましょう。

 「ハチミツとクローバー」という漫画に、このことを端的に表した、こんなモノローグがあります。

旅立つ間際 2人に何があったのかは わからない……

でも 私には わかる

時おり リカさんから入る電話に 答える声に
今までと かすかに違う 落ちついた 深い声が混ざる

――そう 彼は……

――優しくしあう事を 許されたのだ…

 このモノローグを語っているのは、文中の「彼」(真山巧)に片思いし続けている「山田あゆみ」という人物です。彼女は、「彼」が「リカさん」と恋仲になったことを、「優しくしあう事を許された」、と表現したんですね。これは決して婉曲表現ではありません。彼女にとって(あるいは「彼」と「リカさん」にとっても)「優しくしあう事」こそが二人の関係性の中で最も大切なことだと思ったからこそ、彼女はそう表現したんです。
 そして、彼女のセリフにある通り、「優しくしあう事」には「許し」が必要でした。なぜなら、他者に対して「優しくする」ということは、同時にその相手の領域に踏み込むことでもあるからです。真山巧は、2巻で自分のことを「ストーカー」のようだと自嘲的に語っていました。彼が「リカさん」に「優しくする」ことができたのは、ひとえにそれが「許されたから」です。
 「優しくしあう事」を「愛」と言い換えても同じです。他者を愛そうとすることは、他者の領域に土足で踏み込むことでもあるんです。

 だとしたら、「他者を愛する」にはどうしたらいいのでしょうか? 少し古い記事ですが、いずみの氏はこのことについて次のように語りました。

 非モテ系の人の嘆きや主張を読む度に、何度と無く思うことですが

「愛に見返りを求めてはならない」
「愛は求めるものではなくて、与えたり、感じ取ったりするもの」

という世間知を真摯に受け止めるだけで、どうでも良くなる問題ですよね、と。モテないってこと自体は。
 極論すれば、相手に愛される必要なんて無いじゃん、ってことですけど。

 「私がお前を愛したところで、お前に何のかかわりがあろう」の精神ですよ。

 「愛は見返りを求めてはならない」とは確かによく言われます。ただ他者を愛し、愛されることを期待しなければ、いくらでも「愛する」ことが出来るのではないか、と。一見正しそうに見えますが、この意見は根本的な問題を抱えています。それは、「愛することに閉じてしまう」という厄介な問題です。
 以前「他者性に開かれる」ということについて論じたことがありますが、ここでの問題も同じです。「私がお前を愛したところで、お前に何のかかわりがあろう」 と言い切ってしまうならば、「愛すること」は「愛する対象」を見ずとも成立してしまうことになります。対象がどう考えようと「勝手に愛する」という姿勢は、無生物の人形を愛でているのと大差ありません。

 そうした独りよがりに陥るのを避けようとするならば、「他者を愛することで、他者に対してどんな関わりが生じるのか」を考えないわけにはいかなくなります。そうしたことを考えていくと必然的に「相手を愛しようとすること、優しくしようとすること」によって結果的に「相手を傷つけてしまう」という問題にぶつかります。「非モテ」議論から表層的なルサンチマンを剥ぎ取っていくと、どうしてもここに行き着いてしまうんですね。

 それでも尚「他者を愛そう」とすれば、「他者に対して精一杯想像力を働かせながら、それでも他者を傷つける不安に慄きつつ、他者の領域に踏み込んでいく」という困難な働きかけを日常的に繰り返していくしかありません。実は「恋愛という形式」とは、このような働きかけを簡略化し、ある程度の交換可能性をもたらすための装置なんですね。
 残念ながら「恋愛という形式」は「優しくしあう事の許し」のハードルを下げてくれることはあっても、「愛することによって相手を傷つけうる」ということへのフォローはしてくれません。このことで「非モテ」は二重の困難を抱えることになります。すなわち「恋愛という形式に乗れない」という困難、そして「恋愛で傷つけ合うことを避けられない」という困難です。



 「他者を愛せるようになりたい」と思っている非モテの人達に対する私の提案はシンプルなものです。すなわち、「恋愛という形式」に乗ろうとするのを止めてしまってはどうか、と。

 「性愛」に他にはない特別なコミュニケーションの可能性があり得ることは百も承知です。ですが、それが壁になって「他者を愛する」ことの可能性を阻んでいるのであれば、そんなものに拘る必要はない、と私は考えます。
 独りよがりでなく「他者を愛する」には、何よりも「他者を知る」ことが必要です。そのためには詰まるところ、「言葉を介したコミュニケーション」しか方法はありません。そのために有効だと思われるのがシロイ・ケイキ氏のこちらの記事です。

 「このくらいの好意なら、見返りがなくても平気だなあ」と思えるレベルの小さな好意を差し出すことが、「見返りを求めない愛」への道なんじゃないでしょうか。
 いくら見返りを求めないつもりでも、大きくて高価な好意を差し出せば、返報されなかったときに、がっかりしちゃうのが人情なんじゃないかと思うし、そのがっかり感が相手に伝わってしまえば、
「あ、このひとはおれからこんなに大きな好意を取り立てたかったのだな……危険だ。関係を打ち切ろう」
とか思われちゃう可能性が高いわけで。

 だったら最初から「返ってこなくても惜しくない程度の好意」だけを差し出して、自分ががっかりしてしまう事態を回避してしまえばいいのです。

 この記事で問題になっていることは「愛される方法」なんですが、これを「他者を知る可能性を増やす方法」として読み直すことも可能です。要は、「他者を知る」ためのコミュニケーションの潤滑油として、こうした「小さな好意」を活用するということですね。シロイ氏は簡単に実践できる「小さな好意」の例として次のようなものを挙げておられます。

○明るく気持ちの良い挨拶(「挨拶すらしてもらえない」と気分悪くなるし、にっこり笑って挨拶してもらえると嬉しいじゃないですか)
○お礼の言葉をまめに口にする。
○笑顔。スマイルはゼロ円。
○相手の顔をきちんと正面から見る。
○相手の話に注意深く耳を傾ける。ただ黙って聞いてると「こいつほんとにひとの話きいてんのか」と思われるので、頷きや相槌は怠らない。(でもいい加減な相槌が多いと、「やっぱりきいていないな」と思われるかもしれないけどね。気をつけましょう)
○相手の目を見ながら会話する。(ただしこれは相手がかえって落ち着かなくなる場合もあるので、その場合は口元のあたりに視線を移してあげると良い。最初から目ではなく口をみるのでも可)
○相手の美点を正しく評価し、誉める。(思ってるだけじゃ伝わらない)
○悪いと思ったらまめに謝る
○清潔な身だしなみを心がける。お風呂と洗髪と洗濯はまめに。しわくちゃの服やしみのついた服は避ける(相手の前で綺麗でいようと心がけるのは、一種の好意表明だと思います)

 ここでなぜ「恋愛という形式」に乗ってはならないかと言うと、「非モテ」は「恋愛という形式」を潤滑油として機能させることが出来ない(または困難である)からです。それを訓練によって可能にすることもできなくはないでしょ うが、それよりも先述の「小さな好意」を利用する、という手段の方がずっと簡便です。そして、少しずつ「他者を知る」ことを繰り返すことで「どこまで相手に踏み込めばいいのか」といった距離感を養い、相手を大きく傷つけることを避けながら近付いていくことが出来ます。

 もちろん、Masao氏のこちらの記事ように「性愛(または性愛に基づくコミュニケーション)に到達できないなら無意味だ」と考える人も少なくないでしょう。ですが、いくつかの「非モテ」系ブログを見てみる限り、多くの「非モテ」が渇望していることは「セックス」ではない、と思うんですね。セックスそのものを求めているというより、セックスはいわば「優しくしあうコミュニケーション」の象徴であるに過ぎません。そして、両者がぴったり貼り付いてしまっていることが「非モテ」の不幸なのではないか、と思うのです。

 さて、森岡氏の提唱した「モテのパラダイムシフト」が「ずれている」理由が、これでようやく見えてきたかと思います。「モテ」とは結局「愛されること」の問題であり、本当の難題は「愛すること」の方なんですね。「恋人として大切にする」などということを自明のこととして語ってしまったのでは、真に重要な「愛することの困難さ」が見えなくなってしまうんです。

「モテのパラダイムシフト」について(2)

 前回の記事に対して森岡氏から特に何も反応がないようなので、話を先に進めます。まずは、森岡氏による「恋人として大切にする」という言葉の意味を考えてみましょう。

 前回の記事に関して、ブックマークコメントでこんな指摘がありました。

PANZIG 非モテ 「恋愛パートナーが存在しない」男性が「ひとりの女を恋人として大切にする」ことは原理的に不可能、っていうのが理解できない。「片思いの恋人」として大切にすればいい。

 同じくブックマークコメントで海燕氏から「片思いの相手を恋人とは言わない」とツッコミが入っていますが、PANZIG氏は「目的達成には両思いまでは要らない」と反論しています。

 さて、さしあたり、モノガミーを前提して考えましょう。「恋愛関係」とは一対一の「お互いを特別とみなす相互承認関係」と言えます。恋愛関係にある二人は排他的な信頼関係を持つことができ、様々な秘密を共有できる、と一般に考えられています。ここまでは特に異論はないでしょう。
 この「排他的」というところがポイントです。「恋愛関係」の中では様々な「優しさ」や「気遣い」(その内実は今は問いません)が交わされるでしょうが、それらは常にこの「排他性」を前提にしたものです。すなわち、「恋人として大切にする」とは排他性の中でしか成り立ちません。「片思いの恋人として大切にする」という言葉のおかしさはここにあります。排他的な信頼関係が成立していないのに、それを前提にして「大切にする」ことが出来るはずがありません。もし、「片思い」の状態で「恋人として大切にしよう」という人がいれば、その人物はただのストーカーです。
 もちろん、森岡氏の「恋人として大切にする」という言葉の意味が、こうした排他性を前提にしていなければ話は別です。しかし、森岡氏はこの記事で「モテ・3」を 「自分の好きなひとりの女を恋人として大切にすることができる男」 と定義しているのですから、ここでの「恋人」が排他性を前提にしていることは明らかでしょう。



 さて、もう少し「モテ・1」と「モテ・3」を検討してみましょう。

モテ・1
モテる男とは、つねにいろんな女と恋愛・性愛状態である、あるいはその気になればいつでもいろんな女と同時に恋愛・性愛状態になれるような男のことである。
モテ・3
モテる男とは、「自分の好きなひとりの女を恋人として大切にすることができる」男のことである。その副次的効果として、「ただそこにいるだけで、まわりの女たちに、異性としての快い刺激を与え、かつ、安心させることのできる男」に、長い時間をかけて徐々に近づいていくことができる。だが恋人・性交相手は一人である。

 森岡氏が「モテ・1」を忌避する理由は何でしょうか? その答えは記事文中に明示されています。

そのような男は、次々と女を落としていくことはできるかもしれないが、相思相愛のひとりの女を恋人として大切にすることはできにくい。私はそのような状態をモテとは考えない。私がモテる男だと考えるのは、ほんとうに、ひとりの女を恋人して大切にすることができ、恋愛状態を維持できている男のことである。

 一言で言えば、「モテ・1」では恋愛関係における「排他性」が維持しにくい、ということです。森岡氏の定義(モテ・3)に従えば、例えば「友達や恋人を交換可能な『モノ』として考える」Masao氏は恋人が居ても非モテであるということになります。
 森岡氏は、「非モテ」を名乗る人達は「モテ・1」を目標にしていて、「モテ・3」に目がいってない、ということになります。しかし、これは誤りで、多くの「非モテ」が求めているのは、森岡氏の主張している通りの「特別な関係性」なんですよ。このことは、「非モテ」について語っているサイトを幾つか見て回ればすぐに分かるはずです。彼らははっきりと「恋愛」を「特別な関係性」として捉えています。

 では、森岡(コメント欄のイカフライ氏も)はなぜ「非モテ」が「モテ・1」を希求していると錯覚したのでしょうか? それは、「非モテ」の希求する「恋愛」が「一定の形式に基づいたもの」だからなんです。
 詳しいことは以前「恋愛の耐えられない軽さ」で述べた通りです。「恋愛関係」という交換不可能な関係性を構築するはずの「恋愛」とは、それ自体「交換可能な形式」でしかなく、「交換不可能な関係性」を求めれば求めるほど「交換可能な形式」を追いかけていることになってしまう。実体的な「恋愛関係」を知らない「非モテ」が「交換不可能性」を追求すれば、このドツボにはまるしかなくなってしまうんです。

 これは何も「非モテ」に限った話ではなく、「実体的な恋愛関係」の中にだって充分ありうる話です。ゾゾコラムこちらの記事から、以前引用した部分をもう一度引いてみましょう。

じつはアタシが中学生の頃、悲しい出来事があった。アタシの誕生日が近づいたある日のこと、生まれてはじめてできた彼氏と長電話をしていると、その彼が「そういえば最近、なんかほしい物がある?」と尋ねてきたのだ。「あ、誕生日プレゼントのリサーチかな?」と察したアタシは、それとなく迷彩柄の小物に凝っていること、いま一番ほしいものは部屋に飾るモデルガンであることを伝えた。そして誕生日当日「きっとモデルガンを用意してくれたに違いない!」と期待したアタシに贈られたのは、なんと「ファンシーな二人のピエロが音楽と共に回転する、とってもファンシーなオルゴール」だった。彼氏は「このピエロは俺とオマエだ」と嬉しそうにのたまい、そしてアタシは落ちこんだ。……オルゴールなんか、ぜんぜん欲しくなかった。彼はアタシにモデルガンを贈って喜ばれるよりも、アタシの希望を無視して2匹のピエロを与え「これは俺とオマエだ」という決めセリフを言うことを優先したのだと思った。そんな嘘っぽいセリフは、ぜんぜん嬉しくなかった。「ああ、この男はアタシではなく『俺』と『オルゴールを喜んでくれる理想の彼女』が好きなヒトなんだ」と絶望した。誕生日くらいは、アタシの希望を尊重してほしかった、と思うと、泣きたい気分になった。

 恋愛の当事者は、誰もがお互いを「特別な存在」と思いながら、その実しばしば「取替え可能な存在」として扱ってしまいます。そうさせるものは恋愛相手への幻想、もっと言えば「恋愛という形式」そのものです。
 森岡氏の語る「モテ・3」への到達がいかに困難であるか、これでもうお分かりでしょう。森岡氏はこの「交換可能性の罠」をナメてかかっている、と私は思います。だからこそ「非モテ」が「モテ・1」を目指している、などと誤認してしまうし、「モテ・3」を目指せ、などと安易に言えてしまうのでしょう。

 森岡氏の「モテのパラダイムシフト」がパラダイムシフトになっていないことは、これでもう明らかになったと思います。では、どうすれば「パラダイムシフト」が可能でしょうか? これについては、また次回に。

(7/13 追記

 この記事の記述は、森岡氏の言説に対する誤った解釈に基づいて書かれている可能性が高いです。こちらの記事を参照してください。

「モテのパラダイムシフト」について

 前々回に予告したイカフライ氏への言及が残ってますが、その前に一つ「非モテ」関連の話題を取り上げます。

 「非モテ」すなわち「恋愛パートナーが存在しないことに悩んでいる人達」に関しては、「気の持ちようの問題だ」という意見がしばしば見受けられます。それ自体は必ずしも間違いとは言えないんですが、問題はこうした意見を言う人のほとんどが「恋愛至上主義」を前提にして語ってしまうことなんですね。今回取り上げる森岡正博氏の議論も、見事にその「罠」にはまっているんです。
 まず、森岡正博氏こちらの記事から見ていきます。

そもそも、「いろんな女からちやほやされたい、あわよくば、いろんな女とエッチしたい」という願望は、「権力欲」にほかならない。このような権力欲に裏付けられたモテにこだわっているかぎり、光明はさしてこないだろう。(沼崎一郎はこれを「男力」として批判している)。

そのような観念に絡め取られたうえで発せられる「モテ/非モテ」のパラダイムを、脱出しないといけないのではないのか。

 森岡氏の議論のこの部分には、私も完全に同意します。一般的な意味での「モテたい」という欲望は、森岡氏の指摘しておられる通り、一種の「権力欲」として考えることができます。また、そのような権力欲に拘泥することが不毛なことである、というのも至極真っ当な主張です。
 ところが、森岡氏の議論はそこからおかしな方向に向かっていきます。

では、コペルニクス的転回後のモテとは、いったい何なのか? 私が思うに、モテる男とは(とりあえずいまは男性の側に立った異性愛のみを考える。クィア論的次元についてはおいおいのちほど)、次のような男のことである。
モテる男とは、「自分の好きなひとりの女を恋人として大切にすることができる」男のことである。
そういう男になることができたら、その結果として、「ただそこにいるだけで、まわりの女たちに、異性としての快い刺激を与え、かつ、安心させることのできる男」に、長い時間をかけて徐々に近づいていくことができる。

これが、私の考えるモテる男である。

 ここで問題になっているのは「非モテ男性」、つまりは「恋愛パートナーが存在しない」男性です。その状態にある限り、「ひとりの女を恋人として大切にする」ことは原理的に不可能です。
 つまりこの提案は、文字通り受け取るものではなく、「もし恋人が出来たらその人をただ一人大切にしよう」というような「意気込み」のレベルでしか語れないものなんですね。これは、この提案が「どのようなコミュニケーションを取ればいいのか?」という視点からではなく、「理想的な関係性の形はどのようなものか?」という観点から出発しているからとしか思えません。

 森岡氏によれば、「ひとりの女を恋人として大切にする」男であれば、「まわりの女たちに異性としての快い刺激」を与えたり「安心させる」ことが出来たりするのだそうです。何の関連性があるのか私には全く理解できませんが、是非とも詳細を説明して戴きたいところです。
 そもそも、「ひとりの女を恋人として大切にする」という態度ですら「権力欲」の発露でない保証はどこにもありません。恋愛の相手を一人に限って「大切にしよう」としたからといって、それがどうして「相手への支配欲」に結び付かないと言えるでしょうか?

 こうした無根拠な思い込みが盛り込まれてしまうのは、元々「ひとりの相手を恋人として大切にする」というテーゼが単にイメージでしか語られていないからです。「恋人として」とはどういうことか、「大切にする」とはどのような働きかけを意味するのか、といったことが森岡氏の記事には全く語られていません。はっきり分かるのは「恋人をひとりに限定する」ということのみであり、それだけのものに多くの幻想が上乗せされているに過ぎないんです。
 イメージでしか語られていないものを「目標にせよ」と言われても目指しようがありません。出来ることは、せいぜいイメージの断片を模倣することくらいです。



 さて、森岡氏はこの記事で、「モテ概念」を3つに分類・整理しておられます。

モテ・1
モテる男とは、つねにいろんな女と恋愛・性愛状態である、あるいはその気になればいつでもいろんな女と同時に恋愛・性愛状態になれるような男のことである。
モテ・2
モテる男とは、女と恋愛経験をしたことがあり、これからもすることが現実的に可能な男のことである。
モテ・3
モテる男とは、「自分の好きなひとりの女を恋人として大切にすることができる」男のことである。その副次的効果として、「ただそこにいるだけで、まわりの女たちに、異性としての快い刺激を与え、かつ、安心させることのできる男」に、長い時間をかけて徐々に近づいていくことができる。だが恋人・性交相手は一人である。

 森岡氏は「モテ・1」「モテ・2」から「モテ・3」へと目標を切り替えることを「モテのパラダイムシフト」と呼んでおられるわけですが、これは実はパラダイムシフトでも何でもありません。「モテ・1」も「モテ・3」も、暗黙のうちに恋愛・性愛関係を至上のものと見なしている点では同じなんですね。違いは「複数の異性から性的に欲望されること」を「期待するか否か」だけでしかありません。
 「モテ概念」を用いている限り、恋愛・性愛関係の優位を前提としてしまうことは避けられません。すなわち、「モテのパラダイムシフト」は最初から不可能なんです。

 だとすると、「非モテ」にとってのパラダイムシフトは如何すれば可能なのでしょうか? これについては、ひとまず森岡氏の反応を待ってからにしたいと思います。


(7/13 追記

 この記事の記述は、森岡氏の言説に対する誤った解釈に基づいて書かれている可能性が高いです。こちらの記事を参照してください。