「非モテ論議」の傾向と対策

 気付いたら二ヶ月以上放置状態でした。
 この間ネットから離れていたわけではなく、ナツ氏のところの記事(「幼児的全能感の檻に入って出たがらない大人コドモ」と「『ベルセルク』が女性にウケる理由(わけ)」)にコメントしたり、シロクマ氏を囲むオフに参加したりもしていたんですが、このブログだけ見ている人には何の動きもしていないように見えたと思います。議論関係で放置状態になっていた何人かの方には大変申し訳ありませんでした。掲示板等に対する返答記事はこれから上げていきます。


 さて、今回は、ナツ氏のこんな記事が話題になっているので、ちょっとそれに言及してみます。

 タイトルは「非モテ論議が失敗するありがちなパターン」なんですが、要するに「非モテに対して『こうすればモテるよ』というアドバイスをすると、どのようにしても反発を買う」ということですね。ナツ氏はtemtan氏の突っ込みに対して返答記事を書いておられますが、その中で次のように述べられています。

これから非モテについて言及する人に対して、「非モテ論議においてこういう提案をすると、こういう反発をされる可能性がある」という、注意喚起の意図があって書いてます。前回記事で述べているように、もともとはこのブクマとかこのブクマのコメントを読んでいて考えたことですから。

 さて、temtan氏の指摘しておられるナツ氏の記述の矛盾点に関しては、ここでは特に触れません。そんなことよりも、ナツ氏の記事には一つ重要なポイントが抜けています。「これから非モテについて言及する人に対して注意を喚起」したいのであれば、「ではどのように言及すればよいか」という部分に対して一言あって然るべきだと思うんですが、その点が曖昧にされているように思えるんですね。
 そこで、ナツ氏の記事を「非モテ論議で無駄な反発を受けないためにはどうすればよいか」というナツ氏からの問題提起と考え、「非モテへの対応」に対する具体的な提案をしてみたいと思います。ナツ氏の発言の矛盾をあれこれ取り沙汰するよりも、この方がいくらか建設的でしょう。

 元々のナツ氏の記事では、次のように述べられていました。

「なぜ俺はモテない(異性に承認されない)のか?」
とネットで悩んでいる非モテに向かって、「こういう対応をすれば異性と親しくなれるのでは」と言及すると、

(1) 「女の機嫌を取れと言うのか」「女に媚びろと言うのか」「お前は女に都合のいい男を作りたいだけなんだろ」「で、お前は何をしてくれるんだ?」とキレられる

(2) 『モテたいと思っていない』と主張する非モテが飛んできて、
非モテにモテのためのアドバイスをするのは、恋愛至上主義に脳が侵されている証拠。こっちはモテたいと思っていないのに大きなお世話だ。お前のような存在が恋愛資本主義をのさばらせ云々」
と叩かれる

(3) 「モテたくないならモテなくても良いじゃん? 同じとこでぐるぐる回ってないで、一人で趣味にでも没頭したらどうだろう」と提案するとキレられる
(以下略)

 ここで「こういう対応をすれば異性と親しくなれるのでは」という提案をすることが前提になっていることに注意してください。この点にさえ気をつけておけば、ナツ氏が挙げておられるような強硬な反発を受けることはありません。具体的には、「私はどうすればモテますか?」という問いに対して、「あなたはどうしてモテたいのですか?」と問いで返せばいいんです。

 そもそも「モテる」という日本語の意味はかなり多義的ですし、以前こちらの記事でも述べたように「恋愛対象として見られること」は必ずしも望ましいこととは限らないのですから、「どうしてモテようと思うのですか?」という問い返しは別に不思議なことではありません。むしろこれは「どうすればモテますか?」と訊く側が先に説明すべきことです。何か提案するにしても、「理由」によって提案の内容は全く違ったものになるはずですから。

 では、なぜ「非モテ」は「どうしてモテたいと思うのか」を語ろうとしないのでしょうか? はっきりとは分かりませんが、その理由の一端は彼らの自己言及の拙さにある、と私は考えています。「非モテ」に限らず自己評価の低いタイプの人にはありがちなことなんですが、「恋愛することは価値があることだ」という規範意識が、自己を反省的に語り直すことを阻害するんですね。
 「あなたはどうしてモテたいのですか?」という問い返しは、そのような「非モテ」に対して自己を語り直すことを促すものでもあります。それがうまくいけば、「非モテ論議」は特別不毛なものにはならないでしょう。たとえうまくいかなくても、少なくとも激しい反発を買うことはないと思います。



 けれども、「非モテ」に対してこのような「どうしてモテたいのですか?」という問い返しをする人を、どういうわけか殆ど見かけません。ナツ氏の言っておられるように、多くの人はいきなり「モテるにはこうすればいいよ」と自分の経験を交えて語ろうとしてしまうんですね。反発を買うかどうかはともかく、それでは有効なアドバイスになりにくいことが容易に推測できるにも関わらず、です。

 この原因は「非モテ」側が抱えているものと同じなのではないか、と私は考えています。つまり、「モテるにはこうすればいいよ」と語る側もまた「恋愛することの価値」を自明としており、「自分はなぜ恋愛したいと思うのか」を自分に問い返すことをしていないのではないか?ということです。
 だとすれば、「非モテ論議」が平行線を辿りがちになるのは、当然の結果だと言えるでしょう。「なぜ恋愛したいと思うのか」という根本的な問いをお互いが避けながら、「恋愛は価値があるはずだ」という前提だけは共有しているという奇妙な状態で、お互いの「経験」だけを根拠に論じ合っているのですから。

 「非モテ」であるかないかに関わらず、「なぜ恋愛したいと思うのか」を今一度、自分自身に問うてみては如何でしょうか?


(4/15追記
※ この記事に関しては、後で大幅に考えを改めています。「非モテ論議」と語りえぬ欲望をお読みください。

「社会的弱者論」を考えるための基礎

 ナツ氏のところのコメント欄で、以前の「非モテ弱者論争」に関連した話になっています。この議論に関しては以前「意味のある問題設定とは思えない」と述べてスルーしたんですが、「非モテ」に関する議論の中で「弱者」概念が極めてルーズに扱われている現状を考えると、改めてきちんと述べておく必要があると思い直しました。

 ひとまず「社会的弱者」という概念について、もう少し一般的な話から初めてみたいと思います。まずは、「バックラッシュ!」の中での議論について取り上げたmacska氏のこちらの記事から。

新自由主義による経済構造の変化が過剰な流動性を生み出し、それを不安に感じる層がいわば身近なターゲットを「誤爆」するかたちでバックラッシュが起きるという分析は鈴木氏と同じだ。しかし違うのは、わたしがあくまで「誰が弱者であり、どの程度の手当てが必要とされるのか」という社会的合意が成立しなくなったことがジェンダーフリーフェミニズムがバッシングの対象となる理由だと見ていることだ。鈴木氏は実際に女性への手当ては既に行き届いており(だから「恨まれる」対象となる)、現在手当てをより必要としているのは男性の側だと主張しているようだが、わたしからみるとかれは社会の複雑化と不透明化によって起きた「社会的合意の変化」と現実社会の変化を取り違えているのではないかと思う。
(強調は引用者)

 記事の趣旨は、フェミニズムジェンダーフリーへのバックラッシャーが「なぜ発生するのか」「どう対処するべきか」をめぐってのものですが、その中で「弱者男性」について扱われています。macska氏は、バックラッシュが生じた一因が「弱者概念の不透明化」にあるとして、氏自身の経験による次のような例を挙げておられます。

さて、charlie さんもマイノリティに対する手当ては(その形態がどうなるかは別として)いままでと同じく今後も必要だと言いますが、不透明化した現在の社会では政策的にそうすることが困難になっています。上の方のコメントで斉藤さんがそうした困難をどのようにして解きほぐせばいいのかという質問をしていますが、わたしも頭を抱えています。たとえば先日わたしの知人の売春婦が HIV に感染するリスクをあまりに軽く考えているのを知って現実はこうだという話をしていたのですが、彼女が「HIV に感染すれば住居や医療の提供してもらえるし、さまざまな社会的サービスが受けられる」と軽く言うので非常に驚きました。それほどまでに「弱者」はむしろ優遇されている、利権となっているという嫌疑が広まる中、どのようにすればかれらに対する手当てを存続あるいは拡充することができるのか、とても悩むところです。「『弱者』を恨む強者」の情緒的な手当てをすればそれで済む問題なのでしょうか?

 益田ラヂオ氏の「弱者利権が欲しい!」という発言も、元を辿ればこうした「社会的弱者への手当て」への不信感に端を発すると考えられます。要は、「弱者になりたい非モテ」という構図自体が「弱者への不信感」に支えられている、ということです。
 ナツ氏の言う「自称弱者」の問題も、この構造に由来するものと捉えて良いでしょう。

自称弱者が要求してるのは「障害者のように気を遣え」ってことだと思うんです。社会的認知された障害者というのは、「バカにしてはいけない」「人と同じ事ができないのは当然だから責めてはいけない」という「一応の」コンセンサスの元に生きてますよね。そういう社会的コンセンサスがあたかも「特権」のように見えている。それが証拠に、かれらは障害者なり同和なりに対しては概ね冷ややかです。

 このような漠然とした「不信感」と、それによる「弱者は優遇されている筈なんだから俺にも甘い汁を吸わせろ」的な空気に対しては、「社会的手当ての正当性」を何らかの形で分かりやすく提示していく以外にない、と私は考えます。そのためには、単に「正当性を論理的に説明する」だけでなく、「実際の社会的手当てはどのように行われているか」という点を細かく解説していくのが効果的です。というのも、漠然とした「弱者への不信感」を抱いている人の多くは、実際に行われている手当ての内実について詳しく知らないことが多いからです。むしろ、具体的な姿を知らないからこそ「漠然とした不信感」に繋がっている、とも言えます。
 そこで、「弱者への社会的手当て」の一つとして、macska氏によるアファーマティヴ・アクション積極的差別是正措置)の解説を見てみましょう。

人種や性別を考慮に入れるアファーマティブアクションに反対する人の中には、「人種や性別でなく親の収入を考慮すべきだ」という人もいる。たしかに黒人でもお金持ちはいるし、女性だって親にが裕福で教育熱心なら貧しい家庭で育った白人男性より有利な環境にいると言える場合もあるはず。過去のアファーマティブアクションで一番得したのは「裕福な家庭出身の白人女性」であってそれ以外の女性はあまり恩恵をこうむっていない、という説もあるしね。でも、ここで「階級か、それとも人種か、あるいは性別か」といった不毛な論争に引き込まれる理由は何もない。アファーマティブアクションの一環として親の収入を考慮に入れるのもアリだと思うし(現にそういう制度もあるし)、収入さえ考慮すれば人種や性別を考慮に入れることは不必要になるということもないはず。

米国の大学でよくある例だと、両親が大卒でない家庭出身の子どもを優先的に入学させるところがある。これはまさしく、生まれ育った家庭の階級的背景を考慮に入れたアファーマティブアクションで、そうすることで世代間階級格差の再生産を防ごうとしている。また、軍隊経験者を優遇するところもあるけれど、これはただ単に国のために体を張って働いてくれた人に報いるためだけじゃなくて、貧しい家庭出身の人が多い元兵士たちに機会を再配分する意味もある。

アファーマティブアクションは、なにも入学審査や採用試験のときにだけ行われるわけでもない。例を挙げると、物理学などハード・サイエンスを専攻する女性が少ない理由の1つとして、子どもの頃からメディアにおいても周囲の意識としても科学は男性的という決めつけがあったりして女の子が科学に興味を持つことを阻害している、という事実があるかもしれない。もしそうだとすると、女の子が科学に興味を持てるようなプログラムを実施すること,例えば女の子を対象とした科学教室を開いたり、女性科学者の話を聞く機会を設けたりすることが、動機の供給という意味で「機会の平等」かもしれない。いや、何も女の子だけのために何かやれというわけじゃなくて、例えば小学校で消防士さん(あるいは看護士さんでもいいんですが)の話を聞くことがあれば必ず男性と女性の消防士を一緒に行かせるということだけでも、将来の進路をより自由に考えられるようになるはず。

子どもだけじゃない。例えば大学が女性や少数民族の学生をサポートするためのオフィスを作って差別やセクハラなどの問題について相談できるようにするのもアファーマティブアクションに含まれるし、企業が求人広告を女性がよく読む雑誌や(米国なら)スペイン語や中国語の新聞に積極的に載せたりするのも、積極的に応募を促すという意味でアファーマティブアクションだ。もっと言えば、差別や嫌がらせは許さないぞ、と学内や社内に周知させるだけでもアファーマティブアクションと言って良い。

 この記事では様々な形の「弱者への社会的手当て」が挙げられていますが、それらが単なる「弱者への施し」ではなく、従って「弱者」概念を固定的に捉える必要のないものであることがお分かり戴けると思います。それぞれの方策は個々の差別や不平等の形に応じて設定されれば良いのであって、「弱者認定された者にのみゲタを履かせる」ような形である必要はないんですね。

 もう少し考えてみれば、広い意味での「社会的手当て」を受けることのない人など皆無であることが分かるはずです。年金や健康保険制度、それに義務教育や様々なインフラに至るまで、全て広い意味での「社会的手当て」と言えるでしょう。生活保護や障害者手当だって「一部の弱者」のものではなく、その立場になれば誰もが利用できるものです。

 「弱者への不信感」は「弱者概念の不透明化」によって生じたものだ、と先に述べました。これを「本物の弱者」を限定することで解消しようとしても、ますます「弱者として扱われることの根拠が不透明」になっていくだけです。そうではなく、個々の差別や不平等と、それらへの方策のあり方をはっきりさせていくことによってしか、今のところ「不透明化」を解消する道はありません。

 「非モテ弱者論」においても同じです。前提のはっきりしない漠然とした「非モテは弱者か否か」論を廃し、「『非モテ』とはどんな差別や不利益を受けている人達なのか、またそれはどの程度のものなのか」「それは何らかの方策によって解決可能か、可能だとしたらどのような方策か」をはっきりさせることです。前者については、前回の記事「非モテの苦しみとは何か?」で既に概略は述べました。
 ただし、前回にも言ったように、今のところ「非モテの苦しみ」に対する有効な社会政策はありません。従って、「非モテ」をとりたてて「社会的手当てを受ける弱者」として考えてもあまり意味はない、と私は考えています。急いで「方策」を考えるよりも、むしろ「恋愛至上主義に拘る人達」の動機について考察することの方が重要だと思うんですね。


(1/15追記
 コメント欄でのumeten氏の指摘を受けて、記事タイトルを変更しました。また、エントリ内容に直接関係のない最後の一文を削除しました。

「非モテ」の苦しみとは何か?

 前回「クリスマス粉砕デモ」に参加してみての雑感を述べてみたわけですが、その中で「非モテの共通利害など存在しない」と述べたことに対し、益田ラヂオ氏から次のような反応がありました。

rAdio Commented 俺はまず自己利益。それでついでに「同志」の支持も得られたら、互助的でええ感じやん、というわけです。大義名分さえあれば何でもできる!さあ、デモだテロだ死ぬのはどいつだ?
自分にとっての利益とは、一言でいえば「おいしい思い」でしょうかね。

非モテであるがゆえにモテる、とか、ラクしてお金が儲かる、とか、好き放題できる、とか、そういった、ありがちなヤツですね。
非モテであるがゆえに、法外な得をする、みたいな社会が望みです。
(中略)
要するに、既存の「イケメン補正」をなくして、新たに「非モテ補正」でもって、その位置におさまりたいな、と。

 今回は、ここから話を始めてみたいと思います。すなわち、益田氏が挙げておられるような「利益」は本当に「利益」か? ということです。もっと直截に言えば「モテることはそんなにいいことか?」ってことですね。ラクしてお金が儲かる云々は無視するとして、この点に絞って考えてみましょう。(「イケメン」故にラクしてお金の儲かるというのは、ちょっと考えられませんし。)

 そもそも「モテる」とはどういうことでしょうか? これを巡っては、以前にも森岡正博氏の「モテ定義」に関する議論がありましたが、今回は触れないでおきます。さしあたり「異性から恋愛対象と見られること」くらいに考えておきましょう。「非モテであるがゆえにモテる」という表現の自己矛盾についても、今のところはスルーしておくことにします。

 さて、「モテる」ことは非モテにとって利益でしょうか? 「非モテ」とはモテないことで悩んでいる人達なのだから、モテるようになればそれは利益だろう、と単純に考える人も居るかもしれません。しかし、「恋愛対象として見られること」は、果たしてそんなに良いことでしょうか?

 以前にもどこかで述べたと思いますが、「非モテ」は基本的にコミュニケーション、特に非言語的なコミュニケーションを苦手としています。ところが、「恋愛」というコミュニケーションは非言語的コミュニケーションの塊です。umeten氏が「恋愛は想像力の遊戯である」と述べておられるように、そこでは、日常的なコミュニケーションの何倍も「空気を読む」ことが要求されます。
 「モテる」ということを「恋愛対象として見られる」ということだとすると、それは「非モテ」にとって「苦手なタイプのコミュニケーションの場に無理矢理引きずり込まれる」に等しいんですね。恋愛についてよく言われることに「振られるより振る方が辛い」ということがあります。「非モテ」がこのことを想像できないのは、単にたまたま「振る立場」になったことがないだけの話です。
 しかしながら、「モテる」人(男女問わず)をじっくり観察していれば、彼らの多くが、がこうしたコミュニケーションの負荷に対して相当な精神的リソースを割いていることが分かります。果たしてコミュニケーションスキルの低い「非モテ」の人達は、そんな負担に耐えられるのでしょうか?

 もっとも、上記は極端な話であって、コミュニケーションスキルが低い人は恋愛できない、というわけでは勿論ありません。けれども、非モテ」にとって「モテる」ことが必ずしも良いことではない、という事実はきちんと押えておくべきでしょう。

 さて、だとすると、「モテなくて苦しんでいる」というのは一体どういうことなのでしょうか? 「非モテ」の人達は、本当なら「モテないがために余計な苦しみから免れている」のかも知れないにも関わらず、「モテないことが辛い」と言っているように見えます。「非モテの苦しみ」とは一体何なのでしょうか?



 そこで、「非モテの苦しみ」を最も端的に示した記事を以下に紹介しましょう(これが「非モテの苦しみ」の全てだと言うつもりはありませんが、多くを占めるものであることは確かです)。以前多くのブックマークが付いた記事なので、読んだことのある方も多いはずです。

そしていつしか話題は同僚Bの非モテ話に発展しました。

或る中堅社員「お前(同僚B)は女にモテたくないのか?もっと積極的になって合コンやらに参加しなければダメだ!正直やりたいんだろ?」
同僚B「いいんです私は…そういうのはもういいんです…」

という同僚Bの恋愛資本主義からの脱却ともとれる発言が、まわりの人達の神経を逆撫でしました。

「本当にそれでいいと思っているの?五年後に後悔するよ?」
「そんなことを言っているとアキバ系と同じに見られるぞ!人形の着せ替えとかして萌えーとか言ってんの、おえー」
「40過ぎても独身でいいのか?あんな奴ら、人として終わってるよ」
「そんなだからモテないんだよ」

などと罵詈讒謗をグロスフスMG42機関銃の如く浴びせ続けたのです。私も聞いていて耳が痛かったのですが、素知らぬ振りをして芋焼酎を飲んでおりました。可哀想だけれど、同僚Bがいなかったら私がMG42の餌食にされていました。

 この記事に表現されている「辛さ」は、「恋愛できないことが辛い」というのとは全く別のところにあることがすぐにご理解戴けるでしょう。k-d-hide氏のこちらの記事でも似たような「辛さ」が表現されていますが、こちらはさらに読んでいて痛々しいものになっています。長くなるので引用はしませんが、是非読んでみてください。
 この同僚B氏やk-d-hide氏の辛さは、「恋愛関係の有無」にではなく、「同僚・友人関係」の中で発生しています。「非モテ」の真の問題は、恋愛関係ではなく、それ以外の交友関係の中にある、と言い切ってもいいでしょう。特に非モテ男性の場合、上に挙げた記事のように、男性同士の間での関係の中に問題が潜んでいることが多いわけです。

 こうした「恋愛はするのが当然」という感覚の人達は恋愛観も固定的であることが多く、先に述べたような「恋愛の苦手」なタイプの人がこうした「説教」を真に受けると、より悲惨なことになります。(理由は敢えて説明しません。)

 このようなものが「非モテの苦しみ」であるとするならば、それはどのようにすれば解消できるでしょうか? 少なくとも、「非モテ」同士で「団結」すれば解決するようなものではなさそうです。また、政策的にどうにかなる問題とも思えません。恋愛至上主義という思想はこうした人達の中にがっしり根を張っており、法律や国家権力がどうにかできるものではないからです。フランスの哲学者ミシェル・フーコーは「権力は下から来る」と述べましたが、この場合にもそれが当てはまります。
 かといって、このような交友関係の中での問題を個人的に解決することも、容易にできるとは限りません。ただの友人なら縁を切れば済むかもしれませんが、職場の同僚などの場合はそうもいかないでしょう。ただ言えることは、このような問題にシンプルな解決法など無い、ということだけです。

 革命的非モテ同盟の古澤氏は、権力の根源は暴力であり、個人個人が「暴力を留保」した上で社会が成り立っているのだ、だからこそ団結して立ち上がり力を結集することには意味がある、と述べておられました。しかしながら、上記のような関係性の中において「暴力」はほとんど考慮の余地の外であることに注意せねばなりません。暴力は権力を形作る一つの要素ではありますが、それ以上のものではないんですね。実際には、人は食べなければ生きていけないし、それ以外にも多くの人の助けがなければ社会生活を送れないのであり、そうした必然的な相互依存関係の中にこそ「下からの権力」の本質がある、と理解すべきでしょう。
 背後にあるものが「暴力」ではない以上、「団結」による示威行動自体は無意味かつ無力です。前回のクリスマス爆砕デモの時に述べたように、「非モテ」として同じ悩みや辛さを共有する人が集まって語り合うことや、パフォーマンスという形での表現には意義があると思いますが、それは「団結することで力を結集できる」からではない、ということを肝に銘じておくべきだと思うのです。

 今回の「クリスマス粉砕デモ」の総括的なことは未だに行われていないようですが、参加者の一人として、これを以って今後の古澤氏の活動に向けての提言とさせて戴きます。

「クリスマス粉砕デモ」雑感

 久々の更新になります。
 長いこと放置していましたので、年末・年始にかけてしばらく集中して更新していきたいと思います。放置状態となっていた掲示板でのイカフライ氏との議論もエントリ化する予定です。

 さて、今回は、先日参加してきた革命的非モテ同盟主催の「クリスマス粉砕デモ」について、実際に参加してみた感想などを述べていきたいと思います。

 この一年、特に6月の「アキハバラ解放デモ」以降、革命的非モテ同盟の古澤克大氏はすっかり渦中の人となっていました。デモ自体は数百人規模の人が集まったものの各方面から批判が集中し、デモ実行委員の間で批判への対処をめぐっていざこざが発生した挙句、一部の実行委員の関係者がコミケ襲撃(盗撮未遂)事件を起こして問題になりました。さらに、今回のクリスマス粉砕デモの直前に、デモ批判の中心人物であったplummet氏はてなポイントによって懐柔しようとした事実が明らかになり、現在も激しい批判に晒されています。

 今回参加したのは、デモそのものへの興味もありましたが、何より「古澤氏に直接会って話を聞いてみたかった」というのが最大の動機でした。最近の迷走ぶりを見るにつけ、氏の精神状態を少なからず心配せずには居られませんでしたし、また、氏が「非モテ」について根本的にどのように考えておられるのか、についても前々から疑問に感じる部分があったからです。



 デモ自体の様子については、墨東公安委員会氏のデモ見学記を参照して戴ければ、大体の雰囲気は掴めるかと思います。参加者は10人余り(全て男性、デモ終了後に女性の方が来られました)で、おそらく去年のデモと同規模程度だったのではないでしょうか。
 古澤氏は 「数日前に参加予定の人から電話をもらった時は、精神的に追い詰められていて『大丈夫ですか?』と心配されてしまいました」 と話しておられましたが、その日お会いした時には既にそのような様子は感じられず、お元気そうでした。

 デモ後の打ち上げの席で話していて驚いたのは、今回の参加者の中に「自分はモテなくて辛い」と実際に思っている人がほとんどおらず、むしろ「非モテ」という概念に疑問を持っておられる方も少なくなかったことです。ある参加者の方は 「自分はもう十数年『恋愛』と縁がないが、そのことをいちいち気にかけたこともない。生きることに精一杯だったからだ。だから、自分には『非モテ』という自意識はよく分からないのだ」 と言っておられました。少なくとも、今回のデモの参加者が「『非モテ』の同志として団結した集団」ではなかったことだけは間違いありません。
 参加者の方々は、恋愛至上主義打倒といった主張はさておき、何よりも古澤克大という人物のキャラクターに惹かれて集まってきた人達のように見えました。去年からの「常連」の方が口々に 「古澤書記長はリアルの繋がりよりもネットをあてにしすぎる」 と苦言を呈しておられたのが、非常に印象に残っています。



 肝心の古澤氏に理論的な面について幾つか尋ねてみたところ、「理論的な側面はその場その場の思いつきであって、ネタ的に面白くて『非モテ』の利益になれば良いと思っている」と言われてしまいました。「デモはパフォーマティヴで面白くなければならない」というのは確かにその通りだと思います。が、古澤氏はそれのみに拘って「何のために活動しているのか」を見失ったがために現況の苦境に陥っているのではないのでしょうか? そこで、活動の根本的な動機について尋ねてみたのですが、「ネットの世界で承認され、人気を得るため」という答えしか返ってきませんでした。墨公委氏の見学記の中で触れられている「古澤書記長は恋愛をどう捉えているのか」という質問も、このような対話の流れの中で私が持ち出したものです。結局、うまくはぐらかされたような感じで終わってしまったのですが。

 古澤氏はどうやら「非モテにとっての利益や正義」なるものが存在しており、それに沿って活動していこうと考えておられるようです。しかしながら、「非モテ」の利益、ないし利害というのは、「非モテ」概念自体が曖昧である以上、曖昧なものにならざるを得ません。社会に政策的に働きかけても「非モテ」や「喪男/喪女」は何ら得をするわけではない、ということはこれまで様々な人からさんざん指摘されてきました。それに、そもそも「非モテ」はどうなりたいのか?と問われたとき、こうなりたいのだという像を誰も持っていないとすれば(実際誰も持っていないのですが)、共通の利害や正義という形での「団結」は元々成立しないはずなんですね。

 利害なるものが規定できないことが分かった上で、それでも「何が『非モテ』の助けになるのか」を考えることは出来るのか? 少なくとも、今の古澤氏のような態度からは、そのような答えは出て来ないことは確かでしょう。しかし、これは古澤氏が今後活動していく上で、必ず問うていかねばならないことだと思うのです。
 次回は、直接お会いした際に古澤氏に対して言い足りなかった部分について、まとめて述べていきたいと思います。

恋愛という概念装置(3)/ロマンが「恋愛」を殺す

 古澤克大氏のところで、イカフライ氏と議論が続いています。最初は「戦争を悪と規定すること」が話題だったはずなのですが、途中からなぜか「非モテ」の話にすり替わっています。

 議論自体の流れとは直接関係ないんですが、このエントリの中で、こちらでも触れている「恋愛の交換可能性」の話題が挙げられているので、それについてこちらで言及しておきたいと思います。

 そして、恋愛という概念そのものは近代において成立した特殊な概念であるという視点が欠落している。おうおうとして我々近代人は近代固有の概念を当然のものとして考えるが、少なくとも恋愛という概念は近代特有であるということは注意せねばならない。
(中略)
 これは最近はてな界隈で議論されている恋愛の交換可能性問題ともリンクするわけであるが、恋愛という形式そのものは交換可能な単なる器に過ぎない。しかし、その他者との相互承認関係は特別なものであり、それは一義的に誰でもない貴方という交換不可能な存在があってこそのものなのである。

 まず先に言うと、古澤氏は「恋愛という形式」の問題を完全に誤解しておられます。しかし、これはよくありがちな誤解であろうと思いますので、古澤氏の「何が間違っているか」を説明しておきましょう。

 「恋愛という形式そのものは交換可能な器にすぎない」という点は、私の議論とも一致しているんですが、問題は「形式ではない恋愛の内実」なるものが本当に存在するのかどうか、ということです。古澤氏は「他者との相互承認関係は特別なものである」と簡単に言い切っておられますが、これは自明なことではありません。前回の文章の一部を引用しておきます。

 私にとって私は特別な存在ですが、私でない者にとってはそうではない。仮に、この非対称性に耐えられない、何とか他の誰かからも「特別な存在として認められたい」、という人が居たとしましょう。こういう人が二人居て、「お互いを特別な存在だと認めようね」と決めれば、彼らは「自分ではない誰かに特別な存在として認めてもらう」ことが出来ます。
 相手との「時間の共有」など皆無なのに、なぜ相手を特別な存在とみなす(ことができる)のか? 理由を突き詰めれば「自分が特別な存在とみなされたいから」ということになります。(中略)この「かけがえのなさ」はあくまで幻想に過ぎません。幻想を共有して、お互いに自己投影し合うことで成立する「恋愛」は、幻想が崩れれば即座に崩れる(恋が醒める)ことになるわけです。

 「一義的に誰でもない貴方という交換不可能な存在」は、関係性の特別性を保障してくれるものではなく、「交換不可能な関係性がそこにある」という幻想を見せてくれるだけです。「相互承認」自体が何らかの必然によって成立するわけではないことは、少し考えればすぐに分かることでしょう。
 それならば、交換可能でない「特別な相互承認関係」は存在するのか? それは時間の不可逆性の中にしかない、と前回既に述べました。例えば、「誰と友達になるか」ということは多くの偶然が作用しており、「友達になった」時点では他の可能性がいくらでもありますが、一旦友達になって交友関係を続けたならば、その間の関係性を「他の人に入れ替えて考える」ことは出来なくなるわけです。これは、「特別な関係性」が本来事後的にしか語り得ないということをも意味しています。

 ところが、「恋愛」は「特別な関係性」を事後的にではなく、将来への希望として語ってしまいます。だからこそ、そこには何らかの「幻想」が必要になってくるわけです。「相互承認関係は、貴方が交換不可能な存在だからこそ特別になるのだ」という論理は、まさに「恋愛という形式」の「器」そのものです。

 要するに、「他者との相互承認関係は特別なものである」と思い込むこと、それ自体が「恋愛という形式」の一部なんです。このことをよく認識しておかないと、「恋愛という形式」に囚われない「他者との特別な関係性」がどこかにあるはずだ、という本質主義に陥ってしまう危険性があります。
 実際、古澤氏の議論は全体として、本質主義を避けようとしつつも結局その中に囚われてしまっています。「恋愛は近代特有の概念であって絶対ではない」と言いながら(その主張自体には同意しますが)、結局その「近代的恋愛」の枠内でしか「性愛」や「承認」を語れていないように見えるんですね。



 さて、「恋愛」には「幻想」が必要になる、と先に述べました。このことについて、もう少し突っ込んで見ていきたいと思います。

 まず先に、ショータ氏のこちらの記事と、shinpants氏のこちら及びこちらの記事でのやりとりを読んでみてください。(やりとりを適宜引用していきます。)

「恋愛への努力」という言葉が使われる一方で、「恋愛のどうしょもなさ」が語られることはよくわかります。
ただ、今後出会うであろう恋人へ向けた行動(努力)と、具体的な関係(経緯)を経た上での現在の恋人(もしくは友人)への行動(努力)とでは、次元が違います。

今後出会うであろう恋人へ向けた行動(努力)は、未だ出会わぬ恋人像への、モノローグによる物語により意味づけられます。

一方、具体的な関係(経緯)を経た上での現在の恋人(もしくは友人)への行動(努力)というのは、お互いを巻き込みながら、共に物語を作っていく関係の上になされます。

 「今後出会うであろう恋人へ向けた行動(努力)」は、本来事後的にしか語れないはずの「特別な関係性」を、あたかも意図的に到達可能であるかのように語ることで初めて可能になります。従って、このような「努力」には何らかの「幻想」が不可欠であるわけです。このような「(恋愛への)『努力』を駆動させる幻想」のことを、ショータ氏は記事中で「(恋愛への)ロマン」と呼んでいます。
 shinpants氏が「今後出会うであろう恋人へ向けた行動(努力)」と「具体的な関係(経緯)を経た上での行動(努力)」を区別せよと主張するのは、このことに基づいていると考えられます。すなわち、前者がロマンなしでは成立し得ないのに対し、後者はロマンなどなくても「眼前にある、過去の経緯も含めた現在の関係性そのもの」に対応しなくてはならない、という違いです。

 モノローグによって、すなわち自己投影によって作られる「ロマン」は、他者とは無縁に成立させることが出来ます。自分の中の都合だけで「到達点」を設定できさえすれば、それが「ロマン」になります。「到達できるかどうか」は考慮に入りません。
 それに対し、相互的な関係性の中ではこのように一方的な「ロマン」は成立しにくくなります。他者は自分の思うとおりにはならないし、世界は自分の思っていることと違うことが幾らでもあるからです。

 しかしながら、相互的な関係性に触れれば即瓦解してしまうほど「ロマン」は脆くはないんですね。他者や世界が自分の思うとおりにならなければ、人は「ロマン」の範囲を広げることで「ロマン」を守ろうとします。どういうことかというと、「思うとおりにならないこと」そのものを「ロマン」の一部にしようとするんですね。ショータ氏の記事にはそれが非常によく顕れています。

 確かに私は「恋愛のどうしようもなさ」の存在を認める。
 だからこそロマンがあり、至高性があるのだ、という主張を認めよう。
 そして純愛主義者諸君がそのこと、「恋愛のどうしようもなさ」に至高性を求めるために、「恋愛のどうにかなる部分」を忌避し、嫌悪せざるを得ない事情もよく理解できる。原理的には、「どうにかなる部分」を否定することで、「どうしようもなさ」の至高性はこれ以上ないほどに加速するからだ。(排外主義がナショナリズムをドライブするように)

 しかし私はあえて言いたい。
「どうにかなる部分」を文脈とせず、それを前提としない「どうしようもなさ」など、成り立ち得ない。いやむしろ、「どうにかなる」と信じ、「どうにかしよう」と努力したぶんだけ、「どうしようもなさ」の価値が高まるのだ。

 「思うとおりにならないこと」をも取り込んで「ロマン」が機能することが、ショータ氏のこの文章でお分かり戴けると思います。これによって「まだ見ぬ恋人へ向けた努力」が可能になるわけですが、同時にこれは大きな危険をも孕んでいます。それを指摘しているのがshinpants氏の次の記事です。

恋愛関係において、「こういうときにこうなるはずだ」と想定していたことがそうならなかった時、ある意味「失敗」である。
ただ、それが面白いと思えるということは、そのとき、すでに関係は、「恋愛」の枠を飛び出しているのだろう。
実際の恋愛関係は、「恋愛」の枠を軽々と飛び出して、さらに豊かな関係を築いているものではないか。
それを、当初から想定できるものへの努力とその失敗という、同じ次元で語ろうとするのには無理がある。

 私達は、予想できることだけを喜んだり、面白いと思ったりするわけではありません。全く想定していなかったことを面白く感じられることは幾らでもありますし、そうした「気付き」によって、私達はそれまでの自分の思考やものの見方を変えていくことが出来るわけです。

 しかし、その「気付き」を一元的な「ロマン」の物差しにあてはめてしまうとしたらどうでしょうか? いくら自分を変えられる可能性のある「気付き」を得ても、全てを「ロマン」に回収してしまえば、頑なにいつまでも自分を変えていくことが出来なくなります。
 「恋愛」は自分以外の誰かと構築していく関係性ですから、その中には当然「予想もつかないこと」がいくらでも出てきます。その中からは、(それまで自分で考えていた)「恋愛という概念」からはみ出すものが出てくることもあるでしょう。けれども、「恋愛という関係性」の中で起こることを全て「恋愛」に関連づけて語ろうとすれば、そうした「気付き」は切り捨てられてしまうことになります。

 前回述べた「時間の不可逆性」に基づく「交換不可能な関係性」は、「未来は分からない、予想のつかないことが起こる」ということが前提です。そこには、「時間を共に過ごすことでお互いが変化していく」という了解が含まれています。しかし、上記のように「気付き」を切り捨てていくならば、その時間を通して「自分」はずっと頑なに変化しないままになってしまいます。そうである限り、「幻想に基づく関係の特別性」はいつまでも「幻想」のままであり続けることになるでしょう。
 「恋愛へのロマン」を強固にすればするほど(ここには「ロマン」を拡張することも含まれます)、「恋愛という関係性」は「恋愛の形式」に強く依存したものとなっていきます。

私は「未来の恋人への努力」と「現在の恋人への努力」を、それほど「次元が違うもの」だとは思っていません。後者のほうが、少しだけ具体性が伴い、実行力の糧となることが多い、という程度のものだと考えています。

多少混ぜっ返しも含めて書きますが、shinpantsさんは「現在の恋人」について「2人(複数)の物語が関係しあいながら作り上げられる、開かれた意味世界」とおっしゃいますが、それ、本当に開かれていると思いますか? 
私はそれは、「未来の恋人への努力」程度には開かれているし、閉じられている、と思っております。

 ショータ氏が「未来の恋人への努力」と「現在の恋人への努力」を区別できないと考えるのは、「恋人」という概念に乗った時点で全てを「恋愛へのロマン」に回収してしまうからでしょう。そうすれば「自分の中での恋愛(という幻想)」はいつまでも変わらぬ形で保ち続けることが出来ます。それは、萌え系オタクの人達がフィギュアを愛でる行為と何ら変わるところはない、と言えば言い過ぎでしょうか。

恋愛という概念装置(2)/あなたと私の「かけがえのなさ」

 今回は、前回とはちょっと違う話をします。
 まずは、以前の私の記事「『恋愛』の耐えられない軽さ」に言及されている海燕氏の記事から。

 たしかに、恋愛の相手は「だれでもいい」。もしあるひとと恋愛しなければ、べつのひととするだけのことである。
 だが、恋愛相手が交換可能だということは、目の前にいる恋人が交換可能だということではない。
 ただ恋愛できればいいというだけならいくらでも代わりはいるだろうが、ある個人との関係は唯一無二だ。
 たしかに、そのひとと別れてほかの恋愛相手と関係することは出来る。あるいはまた、そのひとと関係したまま、二股をかけることも。
 けれど、そうやっていくら新しい恋愛関係を築いても、あるひととの関係の代用にはならない。ただ、新たにべつの関係を築くことが出来るだけのこと。
 そもそも、ひととひととの関係とは、すべてそういうものだ。ある母親が溺愛する息子を失ったとする。もうひとり子供を産めばその子の代わりになるだろうか?
 なるはずがない。「親子」という制度における「子供」という存在に代用はあっても、「その子」個人の代用は存在しないのである。「友人」でも、「同僚」でも、「仲間」でも、「ライバル」でも、何でも同じ。
(中略)
「恋人」の代わりはいても、「ただのそのひと」の代わりはいない。すべての「恋愛相手」が交換可能だとしても、「そのひと」個人は交換不可能だ。
 ようするに、「恋人」という概念があるからこそ、「ほかに恋人を見つければ、いま目の前にいるひとの代用になりえる」という考え方も出てくるのである。

 「恋愛の交換可能性」という話題は、これまで何度か取り上げてきた話ですが、海燕氏の議論は基本的には私の「交換可能性」の理解と合致しています。ここまでは、(この「烏蛇ノート」上では)特別目新しい話ではありません。

 この海燕氏の記事に対し、sirouto2氏が次のような異論を唱えました。

読者は、「なるほど、個人との関係は、唯一無二の関係、一期一会なのか」などと、何となく分かった気分になるかもしれない。しかしそれは、的外れなズレた理解だ。恋愛関係の特殊性・固有性の説明としては、問題の所在がすり替わってしまっているのだ。なぜそう言えるのか。

まず、個体レベルの特殊性・固有性は全ての個人に存在する、という命題は認めるとしよう。しかしそれは、恋愛の前でも後でも最中でも変わらないし、恋愛以外の関係でも変わらない。そしてそのことが、「良いお友達でいましょう」という、恋愛関係を断る決まり文句に現れている。断られた方が肩を落としてため息をつくのは、単に個人として認められたいのではなく、恋愛関係になりたいからではないか。
(中略)
実は話が全く逆なのだ。恋愛関係が成立することによって、相手の固有性が生じる。または、相手の固有性を認めることによって、恋愛関係が成立する。
(中略)
なぜ、恋愛関係は一対一の関係でなくてはならないのか。それは、「私」が一人しかいない、という自明性に基づいている。恋愛相手の理想像は自己の鏡像である。もちろん、現実の鏡は左右が反転するだけだが、想像的な鏡像では「男女」だとか抽象的な軸で反転する。そして、「あばたもえくぼ」なのは、自己愛を投影しているからなのだ。相手のかけがえのなさは自分のかけがえのなさに由来している。

 最初、私はこの記事の意味するところがきちんと理解できませんでした。というより、正確に言えば、私や海燕氏の考えている「かけがえのなさ」とsirouto2氏の言う「かけがえのなさ」との関係をどのように考えればよいか分からなかった、ということです。

 二つの「かけがえのなさ」を読み解く鍵は、「時間」概念の中にあります。それを次に見ていきましょう。



 私の記事へのブックマークコメントの中に、次のような指摘がありました。
sivad 最初から取替え不可能な相手などいません。時間が取替えを不可能にするのです。
 sivad氏の意味するところはおおよそお分かり戴けるでしょう。これは、海燕氏の「あるひととの、そのひととだけの関係性」を言い換えたものです。このことを、もう少し突っ込んで考えておきます。

 交換可能性は、再現可能性によって支えられています。例えば、科学の実験は条件さえ違わなければ、誰がやっても同じ結果になると考えられています。ここには、何度でも同じ条件を繰り返し設定できるという暗黙の前提があります。時間経過とともに条件が勝手に変わってしまうのでは、再現は不可能でしょう。
 幸いにして、自然界の法則は時間経過とともに変質したりはしません。光速度は未来永劫不変ですし、重力は今も昔も逆二乗則に従って働いているはずです。しかし「人間」はそうではありません。時間経過とともに人間は変わっていき、そしてその変化は不可逆です。
 誰かとある時間・年月を共に過ごしたという事実は取り消せません。ある時間の間に一度築かれた関係性を、同じ時間の内に別のものに塗り替えることは出来ないんです。「時間の不可逆性」が「かけがえのなさ」を作り出すわけです。

 では、sirouto2氏の言う「かけがえのなさ」はどこに根拠があるのでしょうか? sirouto2氏は、これを「『私』が一人しかいないという自明性」に求めます。私にとって私は一人しかいない、ということは「私自身にとっては」厳然たる事実ですから、確かにこれは自明のことのように思えます。
 しかしながら、これはあくまで「私自身にとって」だけのものでしかありません。他の全く無関係な人達から見れば、私は何ら特別な人間ではないでしょう。当たり前の話ですが、人は何も知らない他人を見るとき、その人自身について何も知りません。私達は他人を眺めるとき、「犬の散歩をしてるおじさん」とか「サンドイッチを買いに来た客」というように、交換可能なイメージで他人を捉えています。
 従って、「『私』が一人しかいないという自明性」は、関係性のかけがえのなさを語る場合には(それ自体では)あまり意味がないことになります。

 実は、sirouto2氏の議論は、恋愛関係の交換可能性それ自体について言っているのではなく、「なぜ恋愛関係がかけがえのないものとみなされるのか」という話をしているんですね。
 私にとって私は特別な存在ですが、私でない者にとってはそうではない。仮に、この非対称性に耐えられない、何とか他の誰かからも「特別な存在として認められたい」、という人が居たとしましょう。こういう人が二人居て、「お互いを特別な存在だと認めようね」と決めれば、彼らは「自分ではない誰かに特別な存在として認めてもらう」ことが出来ます。
 このとき、この両者はお互いに「自分が認めて欲しいことを相手に認める」わけですから、その意味で「恋愛相手は自己の鏡像である」と言えます。このことを、sirouto2氏は次のように表現しています。

片想いの場合ですと、相手の鏡像にナルシシズムを投影するだけです。「恋に恋にして憧れ焦がれ」の状態で、まだ相互性が生じていません。しかし、両想いか、少なくとも相互のコミュニケーションが成立している状態では、両方鏡なので合わせ鏡になります。

合わせ鏡は原理的には無限に反射するので、語りつくすことはできません。恋愛が吸い込まれるような深い奥行きを持っているのは、合わせ鏡の際限のなさと同じです。そして、反射した像が見えないくらいに小さくなっていって収束した点が固有名です。

「どうしてあなたはロミオなの?」の問いに対して、もしロミオはかくかくしかじかの属性を持つから好きなのだ、と言っては情熱恋愛のロマンチシズムが失われますが、この属性という面積を持たない抽象化された点、「ロミオはロミオである」としか言えないような極限的な点が固有名であり、恋愛の対象なのです。

 sirouto2氏の議論は、例えば「一目惚れ」といった現象のある側面を言い当てているでしょう。相手との「時間の共有」など皆無なのに、なぜ相手を特別な存在とみなす(ことができる)のか? 理由を突き詰めれば「自分が特別な存在とみなされたいから」ということになります。あるいは、「特別に『好きな人』が居るわけでもないのに、なぜ敢えて『恋愛』を求めようとする人が居るのか」という疑問にも、幾らかは答えられるでしょう。
 sirouto2氏自身が指摘しておられる通り、この「かけがえのなさ」はあくまで幻想に過ぎません。幻想を共有して、お互いに自己投影し合うことで成立する「恋愛」は、幻想が崩れれば即座に崩れる(恋が醒める)ことになるわけです。
 しかしながら、最初に述べた「時間の共有」に基づく「かけがえのなさ」は、こうした仮初めの「かけがえのなさ」とは違います。そして、このどちらもがおそらく「恋愛」という事象に深く関わっているのでしょう。

 これらのことは、前回に述べた「モテ規範」「純愛規範」といった恋愛の規範性とも密接に関わってくると思われますが、これについてはまた次回に。

恋愛という概念装置(1)/二つの恋愛文化

 しばらく放置していてすみませんでした。掲示板での議論については、論点を再整理しようともしたのですが、あまり上手くいかないので諦めました。個人的に、「非モテを社会的弱者とみなすべきか否か」という問題設定自体に意味があると思えない、というのもあります。
 今回からしばらく連続して「恋愛」について(正確には「恋愛という概念装置」について)述べていこうと思うのですが、その前にまず前提しておかなければならないことがあります。

 それは「恋愛」という実体は存在しない、という前提です。正確には「存在するかどうか分からない」なんですが、そもそも「恋愛が実体として存在する」とはどういうことか、今の段階では定義しようがないため、ここでは「そのような実体は存在しない」と言い切ってしまいましょう。何を言っているかというと、平安時代の貴族の色恋と、明治時代の「恋愛」と、現代の「恋愛」が、それぞれ同じものである保障は無い、ということです。この意味は、論を進めていく内に自然と明らかになっていくと思いますので、今は詳しく説明しません。

 さて、掲示板の議論でも一貫して問題になってきた「恋愛への努力」について、非常に重要な論点を突いた記事がありましたので、今回はそれを紹介しましょう。草実スサ氏のこちらの記事、及びそれに対するショータ氏のこちらの記事です。

たとえば「愛」とか「恋」とか「尊敬」とかってのは、それを得ようとして得られるものではなく、副産物として手に入るものです。愛されようとして振舞われても興醒めだし、尊敬を勝ち得ようとして振舞われても滑稽だったりします。それらは、何か別のことを目指している途上で、なぜか手にしてしまうものなのです。
 「愛」とか「恋」が「副産物」!!
(中略)
 筆者である草さんが自覚的かどうかまではわからないが、上記には「ある悪意」がある。それは端的にいって「モテ的行為」への悪意だ。
(中略)
 モテを目指す青年は、モテるために勉強する。モテるためにスポーツに励む。モテるために化粧品に詳しくなる。モテるためにブランドものを着る。モテるために楽器をたしなむ。モテるために合コンに行く。

 モテるために膨大で貴重な時間を費やし、モテるために学ぶ。

 これらの行為は客観的に考えて非常に軽薄だと見られ、社会的行動として評価が低いことは知っている。「滑稽だろ?」と言われれば、自嘲気味に「滑稽に見えるだろうね」と答えよう。

 しかし例えば私自身は、これらの行為をただの一度も心から滑稽だと思ったことはない。

 上記の行為が真に「滑稽」に堕するのは、目的と手段が入れ替わってしまった時であり、私はそのプライオリティを間違えたことは一瞬たりともない、という確信があるからだ。

 私にとって「モテたい」とはあくまで手段であり、目的とは「愛する人に愛されたい」である。
 その目的のために、最適と思える手段をとっていたにすぎない。

 草実氏の意見は、私が以前、森岡正博氏に対して「(森岡氏の言う)モテへのアドヴァイスは無効である」と述べたことに近いのではないかと思います。すなわち、「個別の関係性ではなく、『恋愛』という概念自体を欲すること」への疑義が述べられているわけですが、ショータ氏の記事はこれへの反発となっています。「恋愛を、『モテ』を欲して何が悪い!」ということですね。

 しかし、両者は全くの正反対かというと、そうでもないようです。両者ともが「愛する人に愛されたい」という点を共有していることでも、それは分かるでしょう。方向性自体には、実はさほどの違いはないように見えるんですね。だとしたら、両者を分けているものは何でしょうか? それをショータ氏の記事の中に見ていきます。

 「モテるため(または愛されるため)の努力」が成立するには、「どうすればよりモテるか」が分かっていなければなりません。そして、そのためにはさらに「恋愛とは何か、愛されるとはどういうことか」をよく分かっている必要があります。でなければ、努力目標を明確に定めることが出来ないからです。
 ひとくちに「恋愛」といっても、その相手となる人によってそれぞれ関係性の形は異なるのだから、一般的に「恋愛」なるものはこれだ、と目標を定めることは出来ない。私ならそう考えます(おそらくは草実氏も)。ところが、ショータ氏はそうではありません。氏は「モテるための努力は可能だ」と言ってるんですから、氏にとっては「一般的な恋愛の形」はかなり正確に定めることが出来るもののはずです。

 ここからは推測になりますが、この違いを「属する文化」の問題ではないか?と考えてみると、話はかなりすっきりしてきます。すなわち、「スタンダードな(努力して到達可能な)恋愛の形式」がしっかり存在している場と、はっきりしない場とがあるのではないか、ということですね。ここでいう「場」というのは、文化的な階層クラスター)のようなものを想定しています。
 そこで、ショータ氏のような「恋愛の形式」を定まったものとして捉える文化を「モテ規範文化」、そうではなく「恋愛」を可塑性が高く偶発的な関係性として捉える文化を「純愛規範文化」と便宜的に呼んでみることにしましょう。

 「恋愛」はその人の持っている前提によって、その見え方が異なります。ヘボメガネ氏の「雷のようにある日突然やってくる恋愛」は、「モテ規範文化」の中では夢物語として語られるでしょうが、「純愛規範文化」の中では避けられない現実として語られることになります。


 実は、二つの「文化」はそう簡単には切り離せないと私は考えています。むしろ、両者が存在することにより相補的に「恋愛という概念装置」が構成されている、と考えます。これについては次回に譲ります。