「幸せ」という実体が語られるとき

 昨日、話題のアニメ映画『映画けいおん!』を観に、数年ぶりに映画館に行ってきました。私は映画に限らず、テレビアニメや小説や漫画や演劇などを見ているときにも割と簡単に泣いてしまう性質なのですが、今回もフィルム上映時間の半分くらいで既に泣いていました。映画を見て泣けるのは、文句なく「幸せ」な体験なのですが、そんなときにもふと思ってしまうことがあります。「この幸福感も、映画館を出て一時間もすればすぐに薄れてしまうのに、自分はなぜそれを求めてわざわざここに居るのだろう」と。

 新年最初の記事「恋人もいなければ結婚の予定もない、それでもぼくの人生がハッピーな理由。」海燕さんは、物語を読むことこそが自分の幸せだ、と語った上で、次のように述べておられます。

 幸せに固有の「かたち」があるという幻想、それが多くの人びとを苦しめているのではないだろうか。ある「かたち」の幸福を体験できなければ、真に幸福にはなれないという思い込み。それがひとを縛っているのでは。ぼくは、そう思う。

 私の場合、「幸せ」のような抽象的な概念について考えるときには、いつも「その言葉がどんな風に使われているのか」から考えようとします。「恋人がいる幸せ」「結婚の幸せ」「素晴らしい物語を読める幸せ」「『けいおん!』で泣ける幸せ」はそれぞれどんな風に同じで、何が違うのか。そんなところから「幸せ」について少し考えてみようと思います。



 海燕さんの記事タイトルは「それでもぼくの人生がハッピーな理由。」と結ばれています。英語のhappyという形容詞は日本語で「幸せだ」という意味ですが、文によっては必ずしも「幸せだ」と訳さない方がスムーズな日本語になります。たとえば、
  • I was happy to see you .
 という文は「あなたに会えて幸せでした」とするより、「あなたに会えて嬉しかった」と訳した方がいいでしょう。

 さて、そうすると、日本語の「幸せ」と「嬉しい」とは何が違うのでしょうか。少し考えてみると、両者は非常によく似た使われ方をすることが分かります。「素晴らしい物語を読めて嬉しい」「恋人とイチャイチャできて嬉しい」「大好きな人と結婚できて嬉しい」「映画で感動できて嬉しい」…どれもあまり違和感がありません。「幸せ」とはつまり「嬉しいことが沢山あることだ」と単純に言ってしまってもいいような気もしてきます。

 しかしながら、「幸せ」という言葉の使われ方はそれだけではありません。例えば、「そんな生き方は幸せな生き方じゃないよ」というような言い方は、「嬉しい」という言葉では置き換えられないニュアンスを含んでいます。「結婚が女の幸せ」といった文句も同様でしょう。こうした使い方はある種の規範意識、「幸せとはこういうものだ」という決め付けを少なからず含んでいます。
 このような「幸せ」という言葉の使い方は、海燕さんが暗に批判しているものかもしれません。

もちろん、幸福のかたちは多様だ。結婚して子どもに恵まれることはたしかにひとつの大きな幸せかもしれない。だが、そういう人生でなければ幸せではないということにはならないだろう。
あるひとつの「幸せのかたち」を崇め、それだけが唯一の幸福なのだと思い込むことが病的であることは、先に述べたとおりだ。ぼくたちの幸せはどこまでも多彩かつ多様なのだ。あるひとは切手の収集にたまらない歓びを憶え、またあるひとは釣りの追求にしか幸福を感じることができない。そのどのひとつを取って見てみても、不思議でないものはない。

 では、そんな風に「幸せのかたち」を決め打つことは良くないことだ、「嬉しいことが沢山あること」それこそが「幸せ」なのだ、と単純に言ってしまっていいのでしょうか。



 「幸せになりたい」と人が言うときは、どんなときでしょうか。おそらくは、今の生活が「あまり幸せでない」「嬉しいことより悲しいことや辛いことの方が多い」ようなとき、そんな生活を変えたいと思うときでしょう。悲しい時や辛い時に「嬉しいこと」をイメージするのはなかなか難しいですから、そんなときに呟かれる「幸せ」が漠然としているのは当然かもしれません。しかし、「幸せになりたい」と語るとき、人は必ず「将来の自分の生活」を何らかの形で思い描いているはずです。
 幸せでないと感じている人の日常にも「嬉しいこと」はあるかもしれないけれど、「嬉しかったとき」だけは幸せで、それが過ぎ去ったら不幸に戻る、という風には人はあまり考えません。それは、「幸せ」や「不幸」という言葉が、現在だけでなく、過去や未来のことまで含み込んだ言葉だということではないでしょうか。

 過去の自分はどうであったか、これからの自分はどうなのか、を語ろうとすると、単に今が楽しいとか嬉しいことがあったとかだけでは語り得ない。そうするとどうしても、何らかの「幸せのかたち」について語らざるを得なくなってきます。
 「幸せになりたい」と思っている人の多くは、『映画けいおん!』を観ても幸せにはなれないと思うでしょう。面白くて感動する映画でも、その感動はずっと続かないどころか、映画館を出た途端に現実に引き戻されてしまうからです。

 「結婚」と「幸せ」がなぜ結び付けられやすいのか、もこれで分かります。結婚は映画の感動と違って、ずっと続いていくものであり、続いていくことが容易にイメージ出来るからです。
 けれども、それは同時に、安易に「幸せな未来像」に飛びつくことであり、未来の不確定性の不安から逃れたいという気持ちのあらわれでもあるわけなんですね。

人間の幸福の不思議さは、人間存在そのものの不思議さだ。どうしてぼくたちはなかなか充たされないのだろう? そして、どうしてそれでいて他愛ないことで充足を感じることができるのだろう?

 海燕さんの問いかけに対する私の答えはこうです。「なかなか充たされない(幸せと感じられない)のは、私達が不確定な未来にいつも怯えているからです」。私は、「自分だけの幸せのかたち」なんか探さなくてもいい、と思います。それが一般的に流布している「幸せな生活像」であろうと「自分だけのもの」であろうと、未来への不安を押し潰すための仮初の何かであることには変わりないからです。

 私達は自分の生活を振り返るとき、あるいは遠い将来を思い描くとき、「幸せ」とか「不幸」という基準で考えてしまいがちです。でも、それはあくまで後で振り返って語り直すためのものです。昨年の秋から暮れにかけてアメリカで「ウォール街占拠」というデモが行われました。占拠に参加した人の中には、毎日辛いことばかりだったという人も多かったでしょう。でも、占拠に参加したのは「不幸だから」でも「幸せになりたいから」でも、おそらくなかったはずです。

 幸せに固有の「かたち」があるという幻想、それが多くの人びとを苦しめているのではないだろうか。ある「かたち」の幸福を体験できなければ、真に幸福にはなれないという思い込み。それがひとを縛っているのでは。ぼくは、そう思う。

 最初に引用した部分ですが、「幸せのかたち」が人を縛っている、という海燕さんの言葉に私も賛同します。でもそれは「多様な幸せ」が見えていないからではなく、未来への不安が人を縛っているからだ、と思うのですね。未来の不確定性に対して、人はどうすることもできません。
 私達にできることは、過去を振り返るように未来を眺めることではなく、未来のために何をするのかを考えることでしょう。そこは既に「幸せ」とか「不幸」という次元からはみ出しています。「幸せ」だったか「不幸」だったかなんて、後になってからのんびり考えたって、遅くないんですから。

インターネットは、他の何かの代わりじゃない。

 このところ、完全にネット上での活動がTwitterに移ってしまって、放置状態が続いている当「烏蛇ノート」ですが、とあるブログの文章に刺激されて久しぶりに書いてみようと思いました。

僕は悲しい。とても悲しい。
インターネットで生じている事実が事実として伝えられない。

岡田有花なる人物の手により、全ての記憶が改変されてゆく。努力とか継続とかいう些細で美しい自己啓発と、インターネットという未来が生んだ魔法のブラックボックスにより、全ての事実は抹殺されてゆく。歴史は書き換えられ、僕達1人1人が真実の心を持って懸命に生きてきたインターネットが汚されてゆく。いや、浄化されて行く。美しいものへと。素晴らしいものへと。小さく儚い、それでいて強い美談へと改変されてゆく。

 「真性引き篭もり」というブログは、ブロゴスフィア全盛期の人気ブログの一つだったのですが、ブログサービスの問題があって一度移転し、その後消滅してしまっていました。今回の記事で初めて復活していたことを知ったのですが、実際に復活したのは昨年10月のことだったようです。

 今回の記事は、元ITMedia記者の岡田有花氏による「普通の女子大生がなぜ、Google+で「日本一」になったのか」に対して書かれたものです。一見して分かるように畳み掛けるような詩的な文章は、大袈裟すぎるようにも見え、はてなブックマークのコメントなどでは「ウケ狙いで書かれたネタ」と受け取る人も居るようです。また、「インターネットへの絶望」とか、筆者の悲痛な思いやルサンチマンを読み取るコメントも散見されました。
 私はこの文章は決してウケ狙いなどではないし、また、絶望や恨みに満ちた文章なんかでもない、と確信しています。筆者・真性引き篭もりHANKAKUEISUU氏は、皮肉や逆説じゃなく素直に「インターネットの希望」を語っている、と思うんですね。なぜそう読めるのか、ということを今から少し書いてみようと思います。



 まず最初にこんな断言が出てきて、多くの人が「なんとなくそんな気はしてた」と思ってしまうだけに、これがある種の「嘘」であることになかなか気付かないのですね。

普通の女子大生が日本一になれたのは何故か。

顔だ。
顔写真だ。
顔が美しいからだ。
顔写真が美しいからだ。

 嘘、というのは言い過ぎにしても、ここでの「顔」というのは象徴的な意味を持っているに過ぎません。よくよく考えてみれば、Google+に顔写真を公開している女性は沢山いるはずで、この人が飛び抜けて美しいという訳でもない。文字通りの「顔」は、せいぜい人気の原因になった要素の一つと言える程度でしょう。
 具体的な「顔」そのものが重要なのではないことは、後に出てくる以下の部分から分かります。

だいたいからして、汚いのだ。卑怯なのだ。
岡田有花とそれに併合する人達は、必ず汚いのだ。

特別な能力や特別な欲望を持つ人達を「普通」というフィールドに持ち込んでストーリーを作る。決まってそうだ。毎回そうだ。僅かなポイントを付いて「普通」をでっちあげ、「普通」をアピールする。特別な人間を「普通」だと強引に定義して、普通の人間が「努力、幸運、インターネット」という三種の神器の魔法の小箱で何かを手に入れた事にして、物語を書いてしまうのだ。捏造してしまうのだ。

 「顔」とはつまり、個人の努力ではどうにもならないもの、一部の人間のみが持てるものの象徴なのですね。そして、そうしたものを持っている人間が何を手にするかといえば、「インターネットの外の世界で得られる、現実的な成功」なんです。それを頭に置いて、以下の部分を読んでみてください。

インターネットの希望は破壊される事なく永遠に残り続ける。何故ならば彼女らは消えるのだ。音もなく静かに消えるのだ。インターネッターは消える。インターネットの美女は消える。いつの間にか居なくなる。美しい人から消えて行くのだ。 (中略) 美しい者は、インターネットを捨て、廃棄し、跡を濁さず消えて行くのである。インターネットという地獄では、醜い者だけが生き残るのだ。
ザッカーバーグの彼女の写真を見て、インターネットがあれば俺だってワンチャンあるかも、と思った事くらいあるだろう。そうなんだよ。そういう事なんだよ。インターネットってのはそういう場所なんだよ。こんなちっぽけな僕だってザッカーバーグに求婚されるんじゃないか、って夢見る事が出来るのがインターネットなんだよ。

 美しい者とは誰か。現実に成功を収める能力を持っていた人、あるいは成功を収めた人のことであり、そうした人にとってインターネットは道具でしかない、だから「いつの間にかいなくなる」。けれど、「美しくない」大部分の人にとって、インターネットは成功を与えてくれるものではなく、ただ「夢見させてくれる」だけなんですね。「努力してGoogle+で1位になって、就職にも役立つ」といった「目に見える成功」は、ほとんどの人はインターネットで得ることのできないものだ、と、そう筆者は言っているわけです。
 ルサンチマン溢れる文章だ、と評されるのはこの辺りに原因があるのでしょう。「インターネットの希望」という言葉を一種の皮肉と受け取った人も居るかもしれません。でも、決してそうではないことが、以下のくだりからはっきり分かります。

寧々さんは誰にも奪われない。
当然である。寧々さんは存在しない。現実ではない。非現実である。しかしながら、何人たりとも寧々さんの力にはなれない。寧々さんを喜ばす事は出来ないし、寧々さんを微笑ます事は出来ない。寧々さんを幸せにする方法は地球上どこを探し歩いても存在しないのだ。
彼らは美しいと言いたかったのだ。そして言えなかったのだ。好きだと言いたかったのだ。素敵だと言いたかったのだ。けれども言えなかったのだ。勇気が無かったのだ。こっそりと無記入で拍手ボタンをクリックするくらいの度胸しか無かったのだ。そして拍手ボタンなんて無かったのだ。誰も助けてくれなかったのだ。一度としてそのチャンスは訪れなかったのだ。そう、太陽が終ぞ再び天へと登るまでは、その時は訪れなかったのだ。

そして日は昇ったのである。登り続けたのである。朝になる度、甲斐甲斐しく、太陽は上を目指したのである。それは正しく具現化した希望である。同じ美しさを見あげ、同じ素敵さを共有する。それを美しいと言い、それを素敵だという。太陽の写真は正しく、Aya Sakagutiに大きく空いた「美しいね」のセキュリティーホールだったのだ。素敵さの脆弱性だったのである。

 「現実の冴えない男たちが、美しい女性に『いいね』と告げるために集まった」に過ぎない、ただの報われない下心だ、とは筆者は決して言いません。「冴えない男たち」は何に苦しんできたのか。「好きだと言えないこと」、それは、「現実」においては例えば「恋愛できない苦しみ」という風にしか語りえないことでした。インターネットはその「語れなさ」を別の形に書き換えてしまえるのです。「冴えない男」が冴えないままだという「現実」には何の変化もありませんが、それが一体なんだと言うのでしょうか。

 この「冴えない男たち」もまた、一つの象徴であることにお気付きでしょうか。インターネットで希望を得、高望みして、挫折して、しかしその希望は本当に価値あるものだと言うために、「インターネットのくだらなさ」の象徴としての「冴えない男の性欲」が語られているわけです。つまり、「インターネットの希望」という言葉は最初から「冴えない男」に限らない全てのインターネットユーザーに向けられているんですね。もちろん、Google+で1位になった人に対しても。

>写真が嫌いで、SNSも苦手だという坂口さん。
>それでもGoogle+に写真をアップし続けて要るのは、「就活のため」だ。

何故インターネットという希望の聖域の大切な動機という最も偉大なる感情の衝動を、就職活動という大人達が作り上げた陳腐な社会の枠組みのブラックボックスアウトソーシングしてしまうのか、僕には全く理解が出来ない。そこが一番大切な所ではないか。そこが一番肝心な所ではないか。それだけではない「アラビア語でほめられるなんて、一生ないと思っていた」というのも全く同じである。インターネットという自由世界で得た結実を、アラビア人などという現実世界の大陸の外国語の完全なブラックボックスに委託して書き表してしまうのか。何よりもこれが許せない。

 写真を撮るのも撮られるのも好きじゃない、という「坂口さん」が、毎朝早朝に起きて、インターネットに上げるためだけに写真を撮り続ける。その行為を、岡田氏は結局のところ「就職活動のための努力」という文脈でしか語れていません。インターネットに写真を上げるということが、普段の生活で写真を撮る・撮られるということとは全く違う文脈を「写真」に(そしておそらくは彼女自身に)与え得たということは、Google+で1位になることに比べたら、取るに足らないことなのでしょうか。
 Google+内で人気を博して得られる「現実」での利益は、Google+ユーザーの殆どにとっては縁のないものです。でも、「写真を撮るということの、今までと違う何か、インターネット上のコミュニケーションを経てでなくては見えない何かがある」ということは、全てのインターネットユーザーにとって身近で大切な、そして楽しいことであるはずなのです。

 岡田氏だけではありません。インターネットを語る言説は、そのほとんどが「現実」への関与とセットで語られてきたし、今も語られ続けています。私たちは、インターネットそのものが持つ希望や楽しさを、語る言葉を未だに得ていない。筆者・真性引き篭もりHANKAKUEISUU氏の長い文章は、つまるところ、そのことを伝えようとしたものだと私は受け止めています。



 最後に蛇足になりますが、ブログ「真性引き篭もり」の過去記事の中で、「インターネット」に関わるものを幾つか紹介しておきます。いずれも元のブログは消滅しているのでリンク先はキャッシュです。


 今回の記事と合わせて読めば、筆者が「インターネット」についてどのように考え、どのように生きてきたかの背景が見えてくるのではないかと思います。

「臆病さ」の背後にみえる「恋愛の規範性」

 前回の記事と関連して、転叫院氏が「草食系男子」に関する話題に言及しておられる記事が面白いので、ちょっと取り上げてみます。

  • 本当のところこの21世紀に起こっているのは、リスクが可視化されたことによって、男性の側に自己防衛する選択肢が与えられた、ということだと思う。
  • つまり、「異性に対して積極的でない男性」の次の一手は、虚勢を張ったり「自分は優しすぎるから」などとエゴイズムを正当化したりすることではなく、「勇気を持たないのは正しいリスク低減である!」と言うことだと思うのだよね。
  • 男女交際の社会的リスクはまず3点。民事訴訟の対象となるリスク、刑事訴訟の対象となるリスク、社会的信用を失墜させるリスク。これらのリスクが後期近代において可視化されたことにより、「積極的に異性に働きかけない」という形でのリスクヘッジも可能となった。これが欧米とかだと"rule girls"みたいな形で現れる。これは保険や「リスク分散型商品」が流行るのと同じ理屈。
 ネタバレしますと、昨日の「異性に対して積極的でない男性」についてのエントリーの裏の意図は本田透とか精神論タイプの非モテ論をDisりたいという部分にありまして、「真実の愛が」とか「非モテこそが本当に女性に優しいのに」とかいう話は、まさしく20世紀末の恋愛至上主義の生んだアダバナではないか、と思うんですね。どうして彼らはああもマッチョイズムを批判しつつ、自分の臆病さは糊塗しようとするのかと、臆病さを糊塗するのはマッチョイズムのはじまりじゃないかと思うんです。
(中略)
 自分の場合「女の子が怖いんですよね。なんか喋ってても酷い失言とかしちゃわないかと思うので……」というようなことを、多少なりともカミングアウトするようにしたら、男女交際の話題が出るような会話でもそこそこに、緊張しないで済むようになりました。リスクは二つあって、一つは社会的なもの、もう一つは(男性本人の)心理的なものですね。ただ、この二つの線引きは勘違いすると大変なことになるし、社会的なリスクの方を侵すのは危険が大きすぎる。だから、社会的に何が本当のアウトなのか、というのは今後明文化・可視化されていくだろうし、「臆病系男子」にとってはそういう社会のほうが(必要以上にリスクに怯えなくて良い分)生きやすくなるだろう、と思うのです。

 まず「(恋愛や性愛関係に対して)臆病であることは悪くない、むしろ合理的である」という視点、特に「なぜ臆病になるのか」に関しての分析はこれまであまりなかったのではないかと思いますので、その点ではなかなか面白い考察だと思うんですね。似たような視点の考察としては、私の知る限りでは鳥山仁氏の乱交パーティのリスクについての考察があるくらいです。

 ただ、視点は面白いし、本田透氏のような「真実の愛が」とか「非モテこそが本当に女性に優しいのに」という類の非モテ論については同感なんですが、肝心の「なぜ臆病になるのか」という分析にはあまり説得力を感じませんでした。転叫院氏の分析は「恋愛や性愛に対して臆病である」ことに対して合理的な説明をつけようとしすぎているきらいがあるように思えます。恐怖や嫌悪感というのは、必ずしも合理的に説明のつくものではないし、合理的に説明しなければ困るというわけでもありません。
 この転叫院氏の記事は一般論としてではなく、転叫院氏自身の恋愛観・性愛観が強く滲み出た「語り」として読むのが妥当だと思います。その上で、「臆病であること」や「恋愛関係」そのものについて、もう少し深く突っ込んで考えてみたいと思います。



 転叫院氏は最初の記事で「恋愛の社会的リスク」を三つに分けて述べておられますが、これらは後の追記記事で簡単に一つにまとめられています。

僕が思うのは、せっかく可視化されたのだから、その「臆病系男子」にとって生きやすい社会のあり方をガチで模索できないだろうか、ということです。友人に関しては、自分のコンプレックスによるバイアスがかかっているかもしれませんが、異性相手のほうがハラスメントの加害者になってしまうリスクが大きいと思ってます。「異性へのハラスメントの加害者」というのはかなりの社会的リスクだと思いますので。
(太字は原文ママ

 私はこの記述に一つの違和感を覚えました。ただ普通に喋っているだけで、「深刻な社会的リスクとなりうるような」致命的な性的ハラスメントになるということが、そんなに起こりうるでしょうか? 確かに、意識していなくても性に関して相手が不快になるようなことを言ってしまうこともあるかもしれません。ですが、注意されても何度も似たような発言を執拗に繰り返したならともかく、指摘されて謝罪した場合、そんなに大きな社会的リスクになるとは思えません。
 転叫院氏とは、去年の二月に京都でのシロクマ氏を囲むオフで直接お会いし、お話ししたことがあります。その時の私から見た氏の印象は「非常に気を遣って丁寧な話し方をされる方」というものでした。そのことを考え合わせてみても、やはり「ハラスメントの加害者となってしまうリスク」は取り越し苦労ではないか、と思えてきます。

 しかしそもそも、「ハラスメント」は恋愛関係の中で特別起こりやすいというものではありません。性的なハラスメントはヘテロセクシャルの同性間でも起こり得ますし、実際に起こっています(「非モテの苦しみとは何か?」参照)。むしろここは「ハラスメント」だからおかしいのであって、恋愛関係の中で生じやすい別の何かをあてはめて考えた方がいいかもしれません。そうだとすると、転叫院氏の言う「臆病さ」の別の側面が見えてきます。



 恋愛関係とは何か、ということを語ろうとすると、すぐさま「恋愛は人によって意味するところが多様だから一概には言えない」という(それ自体は非常に正しい)指摘が飛んできます。ですが、この指摘を無条件に認めてしまうと「恋愛」について何も語れなくなるばかりか、「恋愛関係」と他の「友人関係」などの関係性との区別もつかなくなってしまいます。現実に「恋愛」は「友人」その他の関係性とは明確に区別して使われている以上、「どのように区別されているか」はきちんと考えてみなくてはなりません。
 「恋愛」は他の関係性とどのような点で異なるか。それはすなわち、「恋愛関係においては何が許されて、何が許されないのか」という規範性の問題です。重要なものを幾つか挙げてみます。

    • ただ一人の相手を特別な相手とし、異なる相手との間で同時進行してはならない。(相互独占規範)
    • お互いの弱みや甘えを適度に開示し、また受け入れなければならない。(相互依存規範)
    • お互いに「好きであること」を何らかの形で相手に示し続けねばならない。(愛情表現規範)

 これらは、友人関係など恋愛以外の関係性では要求されないか、またはあまり重視されない要素です。
 このような書き方をすると、まず「『恋愛』とはそんなに狭いものではない」という反論がやってくるでしょう。もちろんその通りで、実際の恋愛関係では二股や不倫もありますし、恋人同士だけどお互いにあまり甘え合わない人達も、愛情表現をあまりしない人達も沢山いるでしょう。しかしながらそれらは「好ましくない恋愛」とか「恋人らしくない」などと見做され、場合によっては「本当の恋愛ではない」などと言われたりします。例えば、「二股」という言葉が好ましくない意味で使われ、「本当の恋愛」からの逸脱と見做され、当人達自身もそのことを了解した上で行動しているということ、それらの状況全体が「相互独占規範」が確固たる規範であることの証明です。
 またあるいは、これらの規範性の指摘が「本末転倒だ」という反論があるでしょう。規範があるからそのような行動をとるのではなく、「愛」故に自然とそのような行動として発露するのであり、順序が逆だ、というものです。これも特に否定はしません。愛していれば自然と他の人には目がいかなくなるし、甘えたり甘えさせたくなるし、愛情表現したくなるもの、確かにそうなのでしょう。しかし、あなたにとって仮にそれらが「自然な」ことであったとしても、あなた以外の誰かにとっては、もしかしたらそうではないかもしれません。それでもあなたは言うでしょう。「他の人を同時に好きになるなんて、それは本当に『好き』なんじゃない」「好きだからこそ、甘えたり甘えられたりしたいはず」…と。さらに、それらのセリフがもし、あなたが他の誰かに呼びかけたものではなく、あなたがあなた自身に対して問いかけたものだとしたらどうでしょうか?

 話を戻しましょう。「恋愛」を私達が「恋愛」として他の関係性から区別する限り、これらの「規範性」は否応なくまとわりついてきます。これらを明確に意識して初めて「臆病さ」をきちんと捉えることができます。「臆病さ」とは社会的なハラスメントの加害者となってしまうリスクなどではなく、「恋愛の規範性」が暗に要求する「自然な」感情の発露にうまく乗れないことへの恐怖、と考えられます。
 別の言い方をすると、「臆病さ」とは「恋愛的相互依存への恐怖」です。恋愛関係の破綻の場面などにおいてよくある「傷つける・傷つく」ことの一つは、「相手が本当は自分を愛していなかった(または愛さなくなった)」という「気付き」です。これは「ハラスメント」ではありませんが、「女の子が怖いんですよね。なんか喋ってても酷い失言とかしちゃわないかと思うので……」という転叫院氏の言葉とよく合います。これは「期待を裏切られた」という「傷つき」ですが、単に期待に反したというだけならそこまで深く傷つくことではなくても、「恋愛の規範性」があるからこそ「自分は愛されていなかった」ということが深刻な「傷つき」になりうる、ということです。(そしてそれは、「恋愛の規範性」があるからこそ「自分は愛されている・愛している」という特別な充実感を得ることができる、ということでもあるんです。)

 さて、これらの解釈が正しいとするならば、転叫院氏が引き合いに出した自動車保険のような「恋愛のリスクヘッジ」は残念ながら期待できないことになるでしょう。「愛」とは「自然な感情の発露」であり目的論的に構築されるものであってはならない、ということが「恋愛の規範性」の中には含まれているからです。そして、それらが「規範性」である限り、社会の小集団内で倫理的に糾弾されるような意味でのリスクを避けることは難しいでしょう。
 ただ、最初に述べたように、これらが深刻な社会的リスク(訴訟など)に繋がることは(不倫などを別にすれば)あまりないと思いますから、そのあたりは楽観視してもいいんじゃないかな、と個人的には思います。それよりも、ここで述べたような「恋愛の規範性」が、あまりにも自明なものとして「規範」として意識されずにいることの方が、私にとってはずっと重要な問題です。

 「臆病であることは悪くない」。全くその通りだと思います。が、問題は自分達の「臆病さ」をいかにして語りうるか、ということだと思うんですね。転叫院氏の記事はそうした「語り」の試みの一つだと思うのですが、最初に述べたように、やはり拙速に整合性を求めすぎていると思えたので、このような解釈を加えてみました。「臆病さ」を名指されている人達自身の「語り」のために、何か示唆になるところがあれば幸いです。

「草食系男子」の他称性と差別性

 お久しぶりです。

俺にとってセックスって、もう30年近く「自分の薄汚ねえ欲望で女の肉体を汚す行為」でしかなかったんだよ。だから、俺の性欲の対象は、相当に早い時期から二次元にしか向かわなかった。このへん烏蛇さんだったかな、自分の性欲について似たような感覚を持ってた記憶があるんだけど。ついでに言っとくけどなんか更新して烏蛇さん。ずっと待ってるんで。

 はい、すみません。 実は久しぶりすぎて、書くことが溜まりに溜まって収拾つかなくなってます。本当なら前回の続きから書くべきだとは思うんですが、どうも今ひとつうまくまとまらないので、ちょっと違う話(でもそこそこ関連性のある話)から先に書いていくことにします。待っておられる方、申し訳ないです…。



 さて、今回の本題は、巷でどういうわけか流行りつつあるらしい「草食系男子」という言葉についてです。この言葉を初めて知ったのは、以前取り上げたこともある森岡正博氏のブログで「草食系男子の恋愛学」という著書が紹介されているのを見てからでした。この著書に関しては、以前の議論の巻き直しの意味も含めて改めて検討しますが、今はさしあたり置いておきます。
 「草食系男子」なる言葉の初出はおそらく、日経ビジネスオンラインでの深澤真紀氏のコラムだと思われます(引用文中では「草食男子」になっていますが、本文中では「草食系男子」で統一します)

 かつて、男性にとって、恋愛とセックスは「積極的」(ガンガンいく)か、「縁がない」(もてない)かの、大きく2つに分かれていました。
 現在U35男子の中には、この2つのパターン以外に新しい人種が誕生しています。
 それは恋愛やセックスに「縁がない」わけではないのに「積極的」ではない、「肉」欲に淡々とした「草食男子」です。
 彼らのこうした淡々っぷりは、彼らと付き合う人、使う人に、自らの固定観念の根本的な転換を強います。上の世代には存在そのものが信じて貰えなかったりする難易度の高い男子、それが「草食男子」なのです。

 深澤氏は、以前はこのような男性は存在自体あるはずがないと思われていたのだが、近年特に目立って増えてきた、と述べています。その真偽はともかくとして、まずはっきりわかるのは、その定義の曖昧さと恣意性です。恋愛とセックスに対し「積極的」か「縁がない」かという好い加減な二分法を用いている時点で、そのことは説明を要しないでしょう。これに限らず深澤氏の「U35男子マーケティング図鑑」のコラムは、どれも概ねこんな感じです。
 とはいっても、「定義が曖昧である」というだけで特別何か問題があるわけではありません。定義が曖昧で文脈によって意味を変える言葉などいくらでもあるわけで、何か問題があるとすれば、それはその言葉の使われる文脈の中にあります。

 深澤氏はなぜ「草食系男子」という言葉を新たに作り出す必要があったのでしょうか? 恋愛やセックスに対して「積極的な男性もいれば消極的な男性もいる」という前提を氏が持っていたなら、このような新語は必要なかったでしょう。つまり、まず大前提として「男性は恋愛やセックスに対して常に積極的であるはず」という認識が氏にはあるわけです。だからこそ、コラムの中で氏は「草食系男子」に対して色々と分析を試みているんですね。

 そして、「草食男子」はそこそこもてるので、恋愛経験もセックス経験もあります。
 女子からコクられたり(編注:「告白されたり」の略)、ただの女友達でも飲んだはずみでうっかりHしてしまったり(しかもそのあと気まずくならない)、元カノ(同:以前付き合っていた女性、もと彼女)と久しぶりに会えばこれまた深く考えずにHしたりするので、ちゃんとした彼女がいなくても、恋愛やセックスに困ってもいません。
 「草食男子」が増えたもう1つの原因には、アダルトビデオやネットのアダルト情報があります。これが最近では大変充実していますから、性的な関心には、これである程度は対応できる、なんて考えているのです。
(中略)
 彼らにとって「男女に友情は成立するか」という命題は、ちょっとしたギャグにしか聞こえません。「昔の人はマジでそんなこと思ってたんですか?」とびっくりされてしまいます。
「だって全部の女と恋愛したりするわけないじゃないですか?」と思うのです。
 彼らは、異性の友人はおろか、異性の親友もいて、大事な存在なのです。 女子というものが、恋愛やセックスの対象だけではないことを知っているのです。
 その半面、ひとりの相手に恋して、徹底的に夢中になることもあまりありません。送り狼にならず、雑魚寝はOK、とは、そういうことです。

 ちょっと考えてみれば分かる通り、単に「恋愛やセックスに対して消極的な男性」というだけでこれらの分析があてはまるわけがありません。こうした「分析」は、「男性は恋愛やセックスに本来積極的なはず」であるのに、それがなぜイレギュラーになってしまっているのか?という問いを内包しています。すなわちこれは、未知のものにラベリングして安心を得るための「分析」であり「問い」です。
 それ故に、この「問い」の中には「恋愛やセックスに対して消極的な男性は以前から居たのではないか」という視点が十分に省みられず、安易な世代論に還元されてしまっているんですね。

 同様の指摘は、Uruchi氏Parsley氏によって既になされています。

恋愛(セックス)に消極的な男の否定的な呼称は「朴念仁」やら「根性なし」から「ヘタレ」「(アニメ)オタク」を経て「草食系男子」に言い換えられようとしているっぽい。別にこのエントリの書き手に恥ずかしくないの?と言いたいわけではないけど、「草食系男子」という言葉には、当然「草食系でない男子」がノーマルであり理想的な存在であるという意味が込められてると思うから、草食系男子=セックスにガツガツしてない男子はアブノーマルであって、新たにカテゴライズされる必要があるっちゅうハナシではないのかな。
 で、ですよ。この「草食系男子」という言葉に感じるのは、いかにもコピーライター的なワードですね、と(笑)。
 あと、深澤氏や、白河桃子女史のような、60年代生まれバブル経験女性が、ロスジェネ世代以下の男性を分析観察した上で生まれた言葉であり、実際に草食系男子が「ボク草食系なんです!」と自称している言葉ではないということも特徴として挙げられるだろう。つまり、「生きている」言葉ではない。

 ここでParsley氏の述べている「自称している言葉ではない」という点が非常に重要であると私は考えます。たとえ似たような人々を指すカテゴリーや言葉であっても、それが「自称」であるか「他称」であるかによって、その「政治的意味」が全く異なってくるからです。

 そのような例として、例えば「ゲイ」と「ホモ」や「オカマ」の違いが挙げられます。「ゲイ」が本人達自身による呼称であるのに対し、「ホモ」や「オカマ」はかれらに対する侮蔑語として用いられてきた歴史を持ちます。「歴史を持つ」とは単に過去の経緯のみを指すのではなく、現在に至るまでの、その語が使われてきた文脈の積み重ねを意味します。
 こうした言葉は「イレギュラーと見做した相手へのラベリング」を目的に使われるため、名指す側の規範(この場合は、男性は男性的に振る舞い女性を性愛の対象とすべき、といったこと)を揺るがさないように相手に過剰な意味を押し付ける機能を持ちます。例えば、女性的に見える男性を皆「オカマ」と呼び、同性愛的であると決め付ける、といったようなことですね。このような理解は差別的であるだけでなく、事実としても間違っています。

 自称としての呼称であっても、あとから外部者によって「ラベリング」され過剰な意味を押し付けられる場合もありますが、他称としての呼称が定義が曖昧で恣意的であれば、そのような「ラベリング」の可能性が高くなる(というか、最初からラベリングを目的として言葉が作られる)と言えるでしょう。

 話を元に戻しますと、「草食系男子」という言葉は、まさしくこうしたラベリングのために用いられています。この言葉によって守られているのは「男性は本来、恋愛やセックスに積極的であるはずだ」という規範であり、これはたとえ「草食系男子」を「これまでにない価値観を持つ新人類」というように高く評価する場合でも同じです。


 最近で「草食系男子」という言葉をめぐって最も話題になったのは、neji-ko氏のこの記事でした。ここでの話題はあくまで「ふられた相手をネタにした冗談」であり一般論ではありませんが、先に述べた「規範」がわかりやすい形で述べられています。

「でもさーうちらとしては『男はオオカミ!』だと思って育ってきたわけで、いきなりここにてき草食とか言われても困るよね」「大体どうしてこっちが『どうやってホテルに連れ込むか』とか考えなきゃいけないわけ?」「昔の男の子が女の子に『オレンジジュースだよー』てゆってスクリュードライバー飲ませて潰そうとした気持ちがわかるよね」「別にわたし特別セックスが好きだというわけでもなくてただ好きな人とやりたいというごく自然なことを望んでいるだけなのに……」「大体手をつなごうとして拒否されるとかなんなの?処女なの?」「十八十九の処女ならそういう反応もわかるけど三十目前の男がそれって」

 この記事が話題になった原因は、一部の人に冗談が冗談として理解されなかったこともあるでしょうが、何よりこの「規範の正当化」の言説にこそあったのだと思います。規範を「自然」だと思い込んでその只中にいると、それが規範であることにすら気付かなくなってしまいますが、その規範から弾き出される人にとってはそうではないのですから。

「恋愛放棄」にまつわる個人的な話

 お久しぶりです。
 最近更新が滞りがちなのはネタがないのではなくて、書こう書こうと思いつつ、うまくまとまらないままネタばかりが溜まっていっているという状況なんですが、書けるものからぼちぼち消化していきたいと思います。
 今回はその、これまで何度も書こうと思いつつ何となく書いてなかった記事の一つ、私自身の「恋愛放棄」についての話です。基本的に自分語りなので、大して面白い話でもないですが、少しばかりお付き合いください。



 「恋愛放棄」という言葉は割と非モテ界隈特有の用語かなぁと思っていたんですが、実際にGoogleで検索してみるとそういうわけでもないみたいです。とはいえ、二番目にシロクマ氏のページ、三番目に喪男道と、非モテ関係のページが上位にヒットすることは確かです。
 この二つのページを改めて読んでみて印象的だったのは、立場こそ違えどどちらも「恋愛すること」のメリット・デメリットについて語っているということでした。まぁ、「恋愛放棄」という言葉を使う以上、そうなるのは自然だとは思います(私自身も、喪男道に書き込んでいた際には「恋愛放棄」をメリットの問題として語っています)。が、私が最初に「恋愛放棄」を考えたときには、それは単純なメリットやデメリットの問題ではありませんでした。

 以前こちらの記事などでちょっと書いたことがありますが、私の小学生時代は一貫して友人関係が極端に乏しく、クラスの中で誰かと話すことすらも滅多にないくらいで、休憩時間は基本的に図書室に入り浸りでした。それほど極端な状況になると、自分がクラス内での「異端」であることが当たり前になってきます。「スクールカースト」という言葉で表されるようなクラス内の人間関係や権力構造にも鈍感になります(考えても意味がないので)。当時のクラスメイトの名前は覚えていても、誰が人気者だったとかいうのは全く分かりません。覚えていないんじゃなくて、もともと意識していなかったし、意識のしようもなかったんですね。
 今だからこそこのように整理して語れるわけですが、当時は私は「自分のこと」を語ることができませんでした。コミュニケーションから断絶されているということは、楽しかったとか辛かったとか、そういう感情すら語れないということでもあるのです。当然ながら作文は極端に苦手で、放課後何時間も残されても一行も書けなかったりしたことがよくありました。
 唯一自己表現らしいことが出来ていたのは、三歳下の弟との「遊び」においてだけでした。弟と二人で、おもちゃを様々なキャラクターに見立て、手にとって台詞を語らせ、交互にロールプレイをしながら空想物語を作っていくというもので、テレビゲームやアニメ、時には小説などから題材を取っていました。今でも、その空想の世界でのいくつかの固有名詞や設定、出来事などのいくつかを詳細に思い出すことができます。ただ、弟との「遊び」の中での語りでは、私は現実の自分自身を語ることはできませんでした。「遊び」の世界において、私は私でなかったからこそ語れたのでしょう。

 ともあれ、コミュニケーションから断絶されていた私にとって、「自分を語れない」ということは他のどんなことよりも決定的でした。自分を語れないということは、確固たるアイデンティティを何も持てないということであり、それは「自分には価値がない」ということと同義でした。もちろん「今から考えれば」そうだったということであり、当時にしてみれば「自分に価値がない」ということは空気のごとく自明のことだったので、特に意識していたわけではなかったのですが。

 そんな状態にあって、恋愛するとかしないとかを現実的に考えられるはずもなく、ただ漠然と自分からは遠いものと考えていただけでした。自分にとっての「恋愛」を初めて意識的に考えたのは、中学に上がってしばらく経った頃で、その頃読んでいた一冊の本が原因でした。



 中学に上がってから、幸運にも友人と呼べるような同級生に出会い、その友人が社交的な性格だったおかげで、学校でのコミュニケーション断絶状態は小学校に比べると改善されてきていました。相変わらず自分の感情や気持ちを表現することは苦手で、図書室にも入り浸ってはいたものの、それはそれでそういうキャラクターとして認知されつつありました。ただ、「自分を語れない」ということに端を発する「自分には価値がない」という感覚は、まだまだ強く残っていたと思います。

 そうした中、中学二年の夏休みに入る頃、母の蔵書の中からたまたま見つけて読み始めたのが、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの書いた「第二の性」という本です。これは戦後の女性解放運動の一つのきっかけを作った著作として知られており、フェミニズムをかじった人ならよくご存知でしょう(当時の私はそんなことは知りませんでしたが)フェミニズムにあまり詳しくない人でも、冒頭の「人は女に生まれない。女になるのだ」という一節はご存知かもしれません。
 この本は、「女性の生涯において、女性が置かれている社会状況や抑圧」について中心的に述べています。当時中学生男子であった私がそれのどこに共感したのかといえば、やはり「語れなさ」でした。

 女性は一般的に受身で依存的で主体性を欠くと考えられがちだが、そのように見えるのは女性に固有の特性によるのではなく、女性の置かれた「状況」に依るのだ、とボーヴォワールは言います。その「状況」を形作る重要な要素のひとつとして指摘されているのが、「自分の尊厳を他者(男性中心社会)に委ねざるを得ないということ」だったんですね。男性に認められなければ自身の価値=アイデンティティを自分で定められないということ、それはすなわち「自分を語れない」ということと同義です。それはあくまで「女性」について書かれたものではあったものの、自分自身の過去から現在までの「状況」と呼応するものでした。もちろん、最初に読んだ時はそこまで意識していたわけではないのですが、とにかく私は、この本を「自分に対して言われているかのように」読み、そして、本を読んで初めて「自分は何をすればいいのだろう」という掻き立てられるような思いを持ったのでした。

 「第二の性」でボーヴォワールは、男女間の恋愛について数多くの事例を扱っていますが、その中にはデートレイプに類するような事例が少なからず出て来ます。「第二の性」に入れ込んでいた当時の私は、それらを女性の側に感情移入して読んでいました。性愛が暴力を伴うことがあることや、女性にとっての異性愛が常に妊娠などの恐怖とともにあることを、肌身に感じるように受け取った私は、本を閉じて「男性」としての立場に立ち戻ったとき、自分がどうしたらいいかを考え、こう結論しました。「これから一切、誰とも性的関係を持たないようにしよう」と。その考えから「恋愛放棄」という考えに至るのは、当時の私には必然のように思われました。

 そういうわけで、13歳のとき、私は「恋愛放棄」を一人で心に誓ったわけです。とはいえ、当時の私は、それは特に難しいことでもなんでもないと考えていました。告白などの具体的なリアクションさえ取らなければ、誰かを「好きになる」ことがあったとしてもそれだけに留めておけば、「恋愛関係」を避けて通るのは簡単だと思っていたんですね。
 ただ、簡単なことだとは思っていても、それには「自分で自分を規定し直す」という意味があったのではないか、と今では思っています。自分を語れなかった私にとって、それは重要なことだったのでしょう。

 その後、中学三年の夏休みに私は「第二の性」をもう一度読み直し、学校の課題だった読書感想文をそれで書きました。それまで作文の類が全く書けなかったのに、その時はすらすらと筆が進んで自分でも驚いたことをよく覚えています。

 ずっと後になって、ある女性に自分の恋愛観についてすこし語ったとき、その人から「自分の責任ばかりで、相手の責任を考慮に入れてないんじゃないか」と言われたことがあります。同様の感想を持った方もいらっしゃるかもしれません。13歳当時から私の「恋愛」をめぐる考え方もかなり変わりました。そのことはまた、次の機会に話すことにしたいと思っています。

「非モテ論議」と語りえぬ欲望

 前回前々回の記事に関してあれこれ考えている間に、大野氏のところをはじめ色んなところで取り上げられて話題が広がっているようです。ここで一旦、ここまでの反省も含めて話を整理してみたいと思います。

 まずは、大野氏の記事を受けてのshinpants氏の記事から。
「恋愛できない苦しみ」を度々味わい、「それが嵩じて非・非モテから言及されることに怒りを表す非モテ」、A氏がいるとする。
このA氏に対して、「なぜモテたいのか」と問うことを烏蛇氏は提案した。
このA氏への問いかけは「暴力的ではないか」と大野氏は指摘した。
ぼくは大野氏に賛成する。確かにこれは酷な宣告だろう。
本人が、生きている世界のこだわりの対象に「恋愛」を選んでいるのだ。
感覚的にだろうが、そういう世界に生きているのだ。
そういう世界で生きている人間に向かって、「なぜそういう判断をするのか考えろ」と言うことは暴力的だし、無責任に聞こえる。
>このA氏への問いかけは「暴力的ではないか」と大野氏は指摘した。

問いかけそのものは構わないと思うのですが(その有効性は別として)、烏蛇さんは非モテについて「「恋愛することは価値があることだ」という規範意識が、自己を反省的に語り直すことを阻害する」と書かれていたので、それを前提として問うならちょっとアレだと思ったのでした。
まさしく、ぼくも問題はそこだと思います。君は規範があるから反省が足りない!というつもりで本人に向かって直接「問う」のはやっぱり暴力的でしょう。だとしたら、間接的にならいいのかというと、そうでもない、やっぱりそれは嫌味にしかならない。ぼくはこの問いかけ自体が有効ではないと思います。

 shinpants氏(及び大野氏)の指摘は、前々回での私の「問いかけ」そのものが暴力的ではないか、というものでした。確かにこの指摘は妥当だと思いますし、私の「問い」は軽率だったと言わざるを得ません。最も問題となる部分はここでしょう。

 では、なぜ「非モテ」は「どうしてモテたいと思うのか」を語ろうとしないのでしょうか? はっきりとは分かりませんが、その理由の一端は彼らの自己言及の拙さにある、と私は考えています。「非モテ」に限らず自己評価の低いタイプの人にはありがちなことなんですが、「恋愛することは価値があることだ」という規範意識が、自己を反省的に語り直すことを阻害するんですね。  「あなたはどうしてモテたいのですか?」という問い返しは、そのような「非モテ」に対して自己を語り直すことを促すものでもあります。それがうまくいけば、「非モテ論議」は特別不毛なものにはならないでしょう。たとえうまくいかなくても、少なくとも激しい反発を買うことはないと思います。

 shinpants氏の指摘にもあるとおり、この書き方ではどう読んでも「規範に囚われているお前が悪い」という非難の含みを持ってしまいます。
 大野氏がこちらの記事で「ミソジニー」に関して言っておられるように、「反省的に考え直せ」ば逃れられるというほど「規範」の話は簡単ではありません。しかし、前々回の私の言い回しは、「反省的に考え直すことで規範から脱せよ」と読まれかねないものでした。
 この「含み」はナツ氏のコメント
だからわたしがそういう人に言いたいのは本当のところ、「恋愛したいのか、したくないのかどっちなんだ!」ということではなく、そういう風に自分の内面を突きつめることによって、恋愛至上主義的価値観を内面化していることに気づいて、そこから自由になったら?ということなんですけど。
まず自分の気持ち・欲望をきちんと掘り下げて向き合ってみないことには、どこにも進めないし、闇雲に他者を攻撃することもやめられません。
の主旨と重なりますが、「恋愛至上主義的価値観から自由になるべき」というのは私の本意ではありませんので、慎んで撤回させて戴きます。(このことについては、もう少し後で補足します。)

 shinpants氏は「モテたいと思うこと」を「『恋愛』という形での『世界』へのこだわり」として言い換えています。

では、人が「恋愛」に生きることは勝手でしかなくて、そういう「恋愛」にこだわることの偏りや副産物について指摘することはできないのだろうか。
A氏がなぜ「恋愛」をこだわりとして選ぶのか、その構造を理解することで、この問いの糸口が見えるかもしれない。
A氏をこだわりへと結び付けているのはA氏の美的な感覚である。
(中略)
人間は、二段階で欲望や現実を理解する。
理屈どうこう抜きにして、「なんとかしろ」と自分自身に迫ってくる「欲望」や「現実」を、まず経験的に理解する。この理解はあくまでも、まだ実践の段階でバラバラの状態である。
そして、その実践領域での経験を、統合し、これまでの自分の理解との対応を判断することで、これまでの蓄積で体系付けられている概念の枠組みに組み込む。この段階で、今後の自分の行動に影響する形式的で体系的な「欲望」や「現実」の理解になる。
美的な感覚は、形式的な概念の体系と、経験的な実践の領域とを対応させる、各自が経験により学習してきた一定の基準を持つ感覚である。この感覚が本人の「幸せ」を決める。

 shinpants氏が整理しておられるように、「自分自身に迫ってくる『欲望』や『現実』」は、その時点ではいわば感覚的なものであり、概念として言葉で説明できるものではありません。私達はそれを「語り直す」ことによって概念の体系を作っていきます。例えば「恋愛感情」であれば、私達は最初からそれを「恋愛」という枠組みで認識するわけではなく、事後的に「これは恋愛感情なんだ」と語り直す(再確認する)、といったようなことです。
 「恋愛へのこだわり」というものも、基本的にはこのような「自分自身に迫ってくる何か」であり、それに対する自身による語り直しはあくまで事後的なものです。従って、「なぜこだわりを持つのか」「なぜそれにこだわるのか」ということの正確な答えは本人にも、他人にも分かりません。「推測」ならできますが、それはあくまで私達が蓄積している「概念の体系」をあてはめることによって、です。

 ここで、「どうすればモテますか?」という質問について考えてみます。

 この質問の「意味するところが曖昧である」ということは既に述べましたが、なぜ曖昧になってしまうのか、ということですね。「モテたいという欲望」も先に述べたのと同様、事後的に語らざるを得ない「自分自身に迫ってくる何か」です。一方、「恋愛」とは私達が持っている「概念」です。これらを連結するものが、shinpants氏の言葉で言えば「美的な感覚」なんですが、これは各人の経験によって形成されます。

 ここで比較のために「食欲」という欲求を考えてみましょう。私達が空腹感を覚え、食物を欲するとき、私達には既にこれまでの「食べるという行為によって空腹感が解消される」という経験の蓄積があります。「食欲」と「食べるという行為」はダイレクトに結び付けられ、そこに疑問を差し挟む余地は(ほとんど)ありません。

 では「恋愛したいという欲望」はどうでしょうか? 恋愛経験のない人であれば、「恋愛したい」と思ったとき、その欲望の対象を「恋愛」という概念と直結させることは出来ません。なぜなら、その人にとって「恋愛」それ自体は「概念」ではあっても「現実として感じられるもの」ではないからです。そこにこそ「美的な感覚」に基づく「こだわり」が介在する余地があるんですね。
 これは実は、恋愛経験のある人でも基本的には変わりません。なぜなら、「Aさんとの恋愛」と「Bさんとの恋愛」という経験はそれぞれ別の関係性に基づいたものであって、それらを同じ「恋愛」という概念で括っているのはやはり「美的な感覚」に他ならないからです。「恋愛という概念」が明確に定義できない以上、「恋愛したいという欲望」を明確化することはできないんですね。

 このことを別の角度から見てみましょう。「食欲」は「満たされた状態」がほぼ自明ですが、「恋愛したいという欲望」はそうではありません。どのような「恋愛」であれば「満たされた状態」になるのか、誰にも分からないわけです。「恋愛」に限らず、およそ「欲望」という名で呼ばれるものは全てそうです。(というか、「欲望」という言葉はそのようにして「欲求」から区別されます。)
 それでも「モテたい」とか「恋愛したい」と思うのは、「恋愛すれば良いことがある(幸せになれる)はずだ」という「こだわり」が介在しているからです。「モテたい」あるいは「恋愛したい」という欲望は(というか、どのような欲望も)、突き詰めると「幸せになりたい」という欲望に帰結します。「どうすればモテますか?」という問いは、すなわち「どうすれば幸せになれますか?」という問いに他なりません。

 従って、「どうすればモテますか?」という問いは、そのままでは問い自体が不適切(「どうすれば幸せになれますか」という問いに簡単に答えられる人は居ないでしょう)であるため、問いの内容を限定しなければ有効に機能しません。迂闊に答えようとすれば、それは回答者自身の「恋愛への美的感覚に基づくこだわり」を相手に押し付けてしまうことになります。
 上で挙げたコメントでナツ氏が言っておられることをここでの文脈に沿って解釈するならば、「自身の欲望を明確に語り直すことによって、問いを再設定せよ」ということになるかと思います。しかし既に述べた通り、「欲望を明確に語り直す」ことは誰にとっても困難なことであり、それを他者に強要することは暴力的たり得ます。
 しかしながら、「問いの再設定」をしないことには話が通じないことは確かです。前々回の記事はそのような「問いの再設定」を念頭に置いていたものだったのですが、結局ナツ氏と同様「欲望を明確にせよ」と迫る罠に陥ってしまっていました。

 それでは、有効な「問い直し」とはどのようなものでしょうか? 次回以降に考えてみたいと思います。

「非モテ論議」の傾向と対策(2)/「酸っぱいブドウ理論」の陥穽

 前回の最後で、私は次のように書きました。
非モテ」であるかないかに関わらず、「なぜ恋愛したいと思うのか」を今一度、自分自身に問うてみては如何でしょうか?
 この一文を書いた時点で私が想定していたツッコミは「そういうお前はどうなんだ」というものでした。私自身、「自分にとっての『恋愛』の意味」についてきちんと書いているわけではないからです。しかし、当のナツ氏からやってきたコメントは、そういった想定以前のものでした。

そうは思わないなあ。けっこうやってる人いるし、わたしも何度も訊いた覚えがありますよ。「何でモテたいの?恋愛だけが価値ではないんじゃない?」と。そもそもは、非モテ恋愛至上主義的価値観を内面化してるのが根本的な問題ではないか、という話は大昔に語りつくされた感がある。
そして、「何でモテたいの?」という問い返しは、質問者が恋愛経験者である以上、やっぱり反発を食らいます。「恋愛することの価値は自明ではないというお前だって、結局恋愛してるじゃないか!」と。
ナツ氏のコメントより、強調は引用者)

 ナツ氏の挙げた「問い」は一見「問い」のように見えながら、実は既に答えを用意しています。背後にあるのは「恋愛も価値があるが、それ以外のものにも価値があり、何を選ぶかは自由であるはずだ」という主張なんですね。もちろんこの主張は「正しい」んですが、「恋愛は『なぜ』価値があるのか?」という問いはスルーされています。

 なぜこの部分が抜け落ちてしまうのか、はっきりとは分かりません。理由の一つはおそらく、この「なぜ」を問う必要性が充分認識されていないということなのでしょう。前回の記事に対するブックマークコメントにも、以下のようなものがありました。

ohnosakiko なぜモテたいのか?ってそりゃあパートナーを求める人の多くが、性欲と被承認欲をもて余しているからでしょう。あまりに当たり前のことで、それを問われてもモテたい非モテの人は困るのではないか。

 ここには「恋愛したい(価値がある)のは当たり前」という認識があります。その理由は「性欲」として、あるいは多少気の利いた場合でも「承認欲望」で片付けられてしまいます。
 しかし、よくよく考えてみれば、これはおかしな話です。「性欲」は「恋愛」でなければ解消できないわけではありませんし、「承認欲望」なんて尚更そうです。それらを敢えて「恋愛」に求めるには、それなりの理由があるはずなんですよ。

 その「それなりの理由」とは何か? この部分をこそ、「自分自身に問い直してほしい」と私は前回述べたわけです。おそらく、その「理由」は個々人で異なった語られ方になるはずです。

 今回は、「『恋愛』でなければならない理由」を深く追究することはしません。その代わり、この「理由」が問われないことによって「非モテ論議」がどのような袋小路に陥るのか、という部分を少し見ておこうと思います。



 ナツ氏の発端の記事をもう一度見てみましょう。

最大の問題は、「モテたくないと主張している」のに、実際はモテない(異性に承認されない)ことに心の底から憤ったり絶望したりしている人のケース。
絶望した!三次元の女に絶望した!」という慨嘆は、女性に過大な期待を寄せていてその期待が裏切られない限りは、まず出てこない台詞である。
「絶望している」ことをアピールし続け、「三次元女」が優しくしてくれないことへの不満を垂れ流しまくっている以上は、「相手に優しくされたり承認されたいなら、まず自分がこうしろ」と言われるのは自明である。さんざん女性を罵倒し不満をまき散らしたあとで、「別にモテたくないし、二次元さえあれば俺は満足なのに、どうしてモテを強制されなければならないのか!」と逆ギレしても説得力はありません。

もちろん、「モテないけど、そのことで女性や社会を恨んではいないし、一人でも十分楽しく生きていけます」と本気で言ってる非モテに対して、「異性に承認されたいならこうしろ」と言うのは要らぬお節介であり、価値観の押し付けである。女の承認に頼らずとも自己を確立し、己の価値観に沿って充実した人生を送っているという意味で、精神的に自立した立派な人だと言えましょう。
(強調ママ)

 ナツ氏は「三次元の女に絶望した!」という「非モテ」の慨嘆から、「女性への過大な期待」すなわち「本当はモテたいはずなのに、モテたくないと主張している」という構造を読み取ろうとしています。これはナツ氏に限らず、「非モテ」に批判的な人たちの多くが口にすることです。この論理を「酸っぱいブドウ理論」と仮に名づけておくことにしましょう。
 ナツ氏の理屈は一見、筋が通っているように見えます。しかし、この理屈が成り立つためには、「一人の人間の中で、『恋愛したい』と『恋愛したくない』という状態は同時に成立しない」という前提が必要です。
 ところが一方で、ナツ氏はこのようにも述べているんですね。

恋愛に価値があるから恋愛したわけではないけれど、ある人を特別好きになり、逆に特別好かれることによって得た「恋愛関係」はわたしにとって価値がある。それは確かなことなので、「価値がない」とは言えない。

 ナツ氏自身はどうなのか?と問われたとき、これは「恋愛したい」のか「恋愛したくない」のかどちらでしょうか? 上記コメントを読む限り、「どちらとも言えない」あるいは「どちらかでは答えられない」という答え方が最も正確ではないでしょうか?
 「非モテ」の場合も多くは同じはずで、彼らの「恋愛」に対する感情は「恋愛したい」のか「恋愛したくない」のかという単純な二項対立では語れないでしょう。にも関わらず、ナツ氏は彼らに対し「本当はモテたいはずなのに、モテたくないと主張している」と単純化して解釈してしまいます。

 ナツ氏自身にその気がなくとも、結果的に氏は「恋愛したいのか、したくないのかどっちなんだ!」と「非モテ」に迫っていることになるわけです。このように迫りたくなる気持ちは、これまでのナツ氏と一部の「非モテ」の人達との論争の経緯を考えれば、わからなくもありません。けれども、それによって非モテ」に対してだけ「恋愛への欲望」を単純化してあてはめてしまう、というのはちょっといただけません。
 ナツ氏に限らず、「酸っぱいブドウ理論」を用いる人の多くは、自分自身をその枠外に置きます。例外は私の知る限りシロクマ氏くらいです。

 この結果、ナツ氏が「『非モテ』は『恋愛』を単純化して見ている」と感じるのと同じように、「非モテ」の側も「ナツ氏は『恋愛』を単純化して見ている」と感じてしまうわけです。そうなってしまう理由は、もう言うまでもないでしょう。

 私自身、かつてはナツ氏同様「『恋愛したい』のか『恋愛したくない』のかをはっきりさせる」ことが「非モテ」にとって重要であると考えていましたここでのコメント等)。しかしながら、「恋愛」に対する態度はもっとこみ入っていて、一概に「したい」「したくない」だけで片付けられるものではない、と今では考えています。それは今回の記事で述べた通りです。



 最後にもう一度確認しておきます。前回私が提案した「『なぜ恋愛したいと思うのか』を問い直せ」というのは、「恋愛したいのかしたくないのかをはっきり自覚せよ」という意味ではありません。また、「どうしたらモテますか?」と聞いてもいない人に対して「なぜ恋愛したいんですか?」と訊けとは言っていません。あくまで「問い返せ」または「自分自身に問い直せ」です。
 ただ、これは私が当初思っていたより複雑で分かりづらいもののようです。少なくとも「攻撃的な非モテを避ける処方箋」としてはあまり適切ではない気がしてきたので、「処方箋」としてはひとまず撤回させて戴きます。



(4/15追記
※ この記事に関しては、後で大幅に考えを改めています。「非モテ論議」と語りえぬ欲望をお読みください。