「幸せ」という実体が語られるとき

 昨日、話題のアニメ映画『映画けいおん!』を観に、数年ぶりに映画館に行ってきました。私は映画に限らず、テレビアニメや小説や漫画や演劇などを見ているときにも割と簡単に泣いてしまう性質なのですが、今回もフィルム上映時間の半分くらいで既に泣いていました。映画を見て泣けるのは、文句なく「幸せ」な体験なのですが、そんなときにもふと思ってしまうことがあります。「この幸福感も、映画館を出て一時間もすればすぐに薄れてしまうのに、自分はなぜそれを求めてわざわざここに居るのだろう」と。

 新年最初の記事「恋人もいなければ結婚の予定もない、それでもぼくの人生がハッピーな理由。」海燕さんは、物語を読むことこそが自分の幸せだ、と語った上で、次のように述べておられます。

 幸せに固有の「かたち」があるという幻想、それが多くの人びとを苦しめているのではないだろうか。ある「かたち」の幸福を体験できなければ、真に幸福にはなれないという思い込み。それがひとを縛っているのでは。ぼくは、そう思う。

 私の場合、「幸せ」のような抽象的な概念について考えるときには、いつも「その言葉がどんな風に使われているのか」から考えようとします。「恋人がいる幸せ」「結婚の幸せ」「素晴らしい物語を読める幸せ」「『けいおん!』で泣ける幸せ」はそれぞれどんな風に同じで、何が違うのか。そんなところから「幸せ」について少し考えてみようと思います。



 海燕さんの記事タイトルは「それでもぼくの人生がハッピーな理由。」と結ばれています。英語のhappyという形容詞は日本語で「幸せだ」という意味ですが、文によっては必ずしも「幸せだ」と訳さない方がスムーズな日本語になります。たとえば、
  • I was happy to see you .
 という文は「あなたに会えて幸せでした」とするより、「あなたに会えて嬉しかった」と訳した方がいいでしょう。

 さて、そうすると、日本語の「幸せ」と「嬉しい」とは何が違うのでしょうか。少し考えてみると、両者は非常によく似た使われ方をすることが分かります。「素晴らしい物語を読めて嬉しい」「恋人とイチャイチャできて嬉しい」「大好きな人と結婚できて嬉しい」「映画で感動できて嬉しい」…どれもあまり違和感がありません。「幸せ」とはつまり「嬉しいことが沢山あることだ」と単純に言ってしまってもいいような気もしてきます。

 しかしながら、「幸せ」という言葉の使われ方はそれだけではありません。例えば、「そんな生き方は幸せな生き方じゃないよ」というような言い方は、「嬉しい」という言葉では置き換えられないニュアンスを含んでいます。「結婚が女の幸せ」といった文句も同様でしょう。こうした使い方はある種の規範意識、「幸せとはこういうものだ」という決め付けを少なからず含んでいます。
 このような「幸せ」という言葉の使い方は、海燕さんが暗に批判しているものかもしれません。

もちろん、幸福のかたちは多様だ。結婚して子どもに恵まれることはたしかにひとつの大きな幸せかもしれない。だが、そういう人生でなければ幸せではないということにはならないだろう。
あるひとつの「幸せのかたち」を崇め、それだけが唯一の幸福なのだと思い込むことが病的であることは、先に述べたとおりだ。ぼくたちの幸せはどこまでも多彩かつ多様なのだ。あるひとは切手の収集にたまらない歓びを憶え、またあるひとは釣りの追求にしか幸福を感じることができない。そのどのひとつを取って見てみても、不思議でないものはない。

 では、そんな風に「幸せのかたち」を決め打つことは良くないことだ、「嬉しいことが沢山あること」それこそが「幸せ」なのだ、と単純に言ってしまっていいのでしょうか。



 「幸せになりたい」と人が言うときは、どんなときでしょうか。おそらくは、今の生活が「あまり幸せでない」「嬉しいことより悲しいことや辛いことの方が多い」ようなとき、そんな生活を変えたいと思うときでしょう。悲しい時や辛い時に「嬉しいこと」をイメージするのはなかなか難しいですから、そんなときに呟かれる「幸せ」が漠然としているのは当然かもしれません。しかし、「幸せになりたい」と語るとき、人は必ず「将来の自分の生活」を何らかの形で思い描いているはずです。
 幸せでないと感じている人の日常にも「嬉しいこと」はあるかもしれないけれど、「嬉しかったとき」だけは幸せで、それが過ぎ去ったら不幸に戻る、という風には人はあまり考えません。それは、「幸せ」や「不幸」という言葉が、現在だけでなく、過去や未来のことまで含み込んだ言葉だということではないでしょうか。

 過去の自分はどうであったか、これからの自分はどうなのか、を語ろうとすると、単に今が楽しいとか嬉しいことがあったとかだけでは語り得ない。そうするとどうしても、何らかの「幸せのかたち」について語らざるを得なくなってきます。
 「幸せになりたい」と思っている人の多くは、『映画けいおん!』を観ても幸せにはなれないと思うでしょう。面白くて感動する映画でも、その感動はずっと続かないどころか、映画館を出た途端に現実に引き戻されてしまうからです。

 「結婚」と「幸せ」がなぜ結び付けられやすいのか、もこれで分かります。結婚は映画の感動と違って、ずっと続いていくものであり、続いていくことが容易にイメージ出来るからです。
 けれども、それは同時に、安易に「幸せな未来像」に飛びつくことであり、未来の不確定性の不安から逃れたいという気持ちのあらわれでもあるわけなんですね。

人間の幸福の不思議さは、人間存在そのものの不思議さだ。どうしてぼくたちはなかなか充たされないのだろう? そして、どうしてそれでいて他愛ないことで充足を感じることができるのだろう?

 海燕さんの問いかけに対する私の答えはこうです。「なかなか充たされない(幸せと感じられない)のは、私達が不確定な未来にいつも怯えているからです」。私は、「自分だけの幸せのかたち」なんか探さなくてもいい、と思います。それが一般的に流布している「幸せな生活像」であろうと「自分だけのもの」であろうと、未来への不安を押し潰すための仮初の何かであることには変わりないからです。

 私達は自分の生活を振り返るとき、あるいは遠い将来を思い描くとき、「幸せ」とか「不幸」という基準で考えてしまいがちです。でも、それはあくまで後で振り返って語り直すためのものです。昨年の秋から暮れにかけてアメリカで「ウォール街占拠」というデモが行われました。占拠に参加した人の中には、毎日辛いことばかりだったという人も多かったでしょう。でも、占拠に参加したのは「不幸だから」でも「幸せになりたいから」でも、おそらくなかったはずです。

 幸せに固有の「かたち」があるという幻想、それが多くの人びとを苦しめているのではないだろうか。ある「かたち」の幸福を体験できなければ、真に幸福にはなれないという思い込み。それがひとを縛っているのでは。ぼくは、そう思う。

 最初に引用した部分ですが、「幸せのかたち」が人を縛っている、という海燕さんの言葉に私も賛同します。でもそれは「多様な幸せ」が見えていないからではなく、未来への不安が人を縛っているからだ、と思うのですね。未来の不確定性に対して、人はどうすることもできません。
 私達にできることは、過去を振り返るように未来を眺めることではなく、未来のために何をするのかを考えることでしょう。そこは既に「幸せ」とか「不幸」という次元からはみ出しています。「幸せ」だったか「不幸」だったかなんて、後になってからのんびり考えたって、遅くないんですから。