三次元から逃れられない電波男

 今回は軽めの更新です。
 引用はkiya2014氏のこの記事から。

・身近な三次元に純愛があると二次元派はかなり困る

電波男』を読めば明らかであるが、二次元が二次元として有効でありうるのは、「三次元が愛のない世界であり、それに比べれば自己満足であっても二次元のほうがマシだ」という一点においてのみである。だから、僕のように非当事者として実際の純愛を傍観せねばならなかった人間においては、電波男の主張は理解できる/できないにかかわらず、救いにはならない。
(中略)
実際には、「モテの魔の手」を考えるまでもなく、反発より共感/理解のほうが、『電波男』的な主張に対してはダメージが大きい。それは喪男板の「しろはたスレ」にたびたび三次元世界の醜さの話題が出てくることに暗示されているし、また、同板の「好きな子が男とセックスしてる現実を考える」スレッドを読めば、「三次元の女の子があれほど素晴らしいのに、(内面にしろ外面にしろ)醜い自分には振り向いてくれない」という負の感情に満ち満ちている彼らが、そう思うがゆえに(三次元純愛の可能性を信仰しているがゆえに)二次元という救いからも切断されてしまっている状況がよくわかるだろう。

 わざわざ三次元と比較しなくとも、二次元には三次元にない独自性があります。それは「やおい」というジャンルを考えればすぐに分かる話で、「自分が含まれない世界で、キャラ同士の関係性に萌える」というのは三次元(現実の相手との一対一での関係)では構造的に不可能なんです。
 「それは腐女子だけの話じゃないか」と言われるなら、ヘテロ男性には「百合」というジャンルもあります。

 やおいや百合に限らず、二次元のキャラ萌えは基本的に全て「自分のいない世界」での話です。「生身の自分を捨象して萌えられる」という点はやおいに限らない二次元一般の特徴でしょう。
 このことを考えると、身近な三次元に「純愛」があっても二次元派は別に困らないはずなんです。少なくとも私は困りません。
 ということは、kiya氏のように考える人は「根本的に二次元にはハマれない」人なのかもしれません。



 これは実は、「電波男」を読んで以来ずっと感じていた違和感でもありました。
 作者の本田透氏は、「腐女子は世界が違うから」というよく分からない理由で二次元考察から腐女子を排除してるんですね。これが広く支持されているということは、kiya氏のようなタイプの男性が二次元萌えの世界にはかなり存在するのかもしれません。

 ただ、だからといって「彼らはやはり結局は三次元に羨望し続けるしかないんだ」と話を続けようとは思いません。羨望するにしろ蔑むにしろ、彼らにとっての三次元の世界が過剰な幻想に包まれていることに変わりはないからです。
 kiya氏の思う「純愛」は、三次元での恋愛の一形式に過剰な幻想を覆いかぶせたものです。それが「自分よりはるかに素晴らしい世界」に見えるのは、自分自身と、自分の今立っている世界とをあまりにも負に捉えすぎた結果なんですね。

 三次元の恋愛は確かに素晴らしいかもしれない。けれども、三次元で恋愛しているのも、二次元に萌えているのも、他者に虚像を抱いては幻滅を繰り返す、同じ人間です。
 そのことを実感できた時、彼らは初めて三次元に拘らずに二次元に萌えられるのかもしれません。

 二次元萌えの世界へ、ようこそ!