「非モテ」は如何にしてミソジニーに陥ったのか?(2)

 Leiermann氏のこちらの記事及びコメント欄への反論が長くなりそうなので、新記事を立てることにします。

 ここで「キモい」者の辛い宿命を改めて振り返らざるを得ない。まず、一般的には他人から恋心を寄せられるというのは負担に感じることもある――らしい。ことに、「キモい」者から恋心を寄せられるのは「セクハラ」扱いさえされるようなのだ。良いの悪いのと言っても始まらない。これが現実だ。

 ここで、知人・友人として許容できる「キモさ」と異性として許容できる「キモさ」は桁が違うことに注意せねばならない。相手が良き友人として接していてくれても、何の保証にもならぬのだ。こちらが好意の片鱗さえも見せた途端に、今までの友情は消し飛び、嫌悪の矢が降り注ぐこととなる。
(私のコメント)
Leiermann氏は、kiya2014氏と同様の落とし穴に陥っているように思えます。
絶対的に「恋愛が不得意」な人間は存在するかもしれませんが、「絶対的にキモい」人間は存在しません。「キモい」というのは他者からの主観的評価に過ぎず、他者の価値基準によってどうとでも変わるものだからです。
「こちらが好意の片鱗さえも見せた途端に、今までの友情は消し飛び、嫌悪の矢が降り注ぐこととなる」というのはご自身の経験からのものと察しますが、これを一般化してしまうのは「女は皆同じ、自分を嫌悪するに決まっている」と主張しているのに等しいのでは? これはやはり一種の被害妄想だと思いますし、女性一般の意識を狭く決め付けているという意味で、女性への侮辱とさえ言えると思います。ミソジニーに陥っている喪男と構造的には一緒でしょう。
(hazama-hazama氏のコメントより)
なぜそもそもL氏に侮辱的態度をとった女性の倫理をまず問わないのですか?
それに、いくら美醜の感覚が主観的なものと言っても、社会的な傾向というものはあります。ごく簡単に言えば、Lさんはその傾向からは残念ながら外れるということを自分でおっしゃっているのです。そりゃあ、世の中にはL氏を異性として好きになる女性もいるでしょうが、その数は圧倒的少数なのであって、その女性を見つけるために不断の努力をすべきなのですか?L氏が全ての女性は悪である、とでも言っていたらこれは女性への侮辱でしょうが、世のほとんどの女性は確率論的に言って自分を異性として見ないという自己評価は、まったく女性蔑視ではありません。
被害妄想だあ?だったら、オタはキモイとか、非モテはキモイとか言っている連中はこの世に存在しない、空想の産物なんですかね?

 私の述べているのは、「非常に高い確率で、女性は異性としての私を嫌悪するだろう」というLeiermann氏の自己認識が「帰納法的誤謬」に陥っている、ということなんです。これはLeiermann氏に限ったことではなく、「非モテ」全般の特徴でもあります。

 「異性としての自分は女性に嫌悪されるに違いない」というのは、Leiermann氏の中では「経験的事実」なのだと思います。しかしながら、それは恐らく数人の女性が氏に対してそうであったに過ぎず、彼女達とは別の価値基準を持った女性であれば話は違ってきます。そして、この可能性を捨象しているのは「女性は皆同じような価値基準を持っている」と断じているに等しいでしょう。
 Leiermann氏自身がミソジニーに陥っているとまでは言いませんが、この「自らの遭遇した数例のみから全体を断ずる」姿勢は、ミゾジニーに陥った非モテと同様のものです。


 ハザマ氏の反駁にもお答えしておきますが、私は「そういった女性を見つけるために不断の努力をすべき」などとは言っていないし、言うつもりもありません。私が問題にしているのは「現状認識を誤っている」ことそのものです。確かに、Leiermann氏が過去の女性から侮蔑を受け、トラウマを受けたであろうことは容易に察することができますし、同情の余地は十二分にありますが、それでも誤謬は誤謬です。

 私は「非モテ」の美醜の自称をほとんど信用していません。
 「醜形恐怖」という神経症をご存知でしょうか? 私の知り合いにも居ますし私自身その傾向が少々ありますが、簡単に言うと「自分の顔を醜いと信じ込んで人前に出られなくなる」といったものです。ただでさえ自分の顔を自分で評価するのは難しい上、様々なコンプレックスやトラウマが加われば「客観的評価」など出来なくなるのはむしろ当然で、自分の顔に対する自己評価を信用する方が間違いなんです。



 このように「異性としての自分は女性に嫌悪されるに決まっている」という自己認識が非常に危ういものである、という認識がLeiermann氏には(他の多くの非モテにも)欠けています。「オタはキモイとか、非モテはキモイとか言っている連中」が掃いて捨てるほど存在するのは事実ですが、全ての他者がそうだと考えてしまうと現実を見誤ります。

 Leiermann氏は元記事ではっきり(現実・架空を問わず)恋愛を嫌っていると宣言しておられますが、私はそのことを否定するつもりもないし、むしろ積極的に評価したいと思います。ただ、「恋愛が嫌いである」という自己認識は、他者(女性)が氏を恋愛対象として承認するか否かとは無関係に成立しうるものですし、「女性に絶対に恋愛感情を拒絶されるに決まっているから恋愛を放棄する」という論理は危うい、ということなんですよ。