「非モテ」は如何にしてミソジニーに陥ったのか?

 「非モテ」を自称する人達がその実「モテない」のではなく「恋愛や性を恐怖・嫌悪している」のだ、ということは前回も述べましたが、このことはなかなか理解されにくいことでもあります。
 シロクマ氏のこの記事などを見ると、「恋愛の忌避」という視点がすっぽり抜け落ちていることが分かるでしょう。

彼らのモテ/非モテ関連のテキストや議論には、

  * 自分がいかに異性を評価するのか(好みの異性含む)
  * 自分が恋に落ちるのはどういう時か
  * 恋した時、これから自分は何をするのか
  * 異性に実際にアプローチするための方法論

といった、能動的に対象に働きかける事に関する議論が滅多にみられないのだ。

 「恋愛の忌避」を前提に考えれば、これらは別に不思議なことでもなんでもありません(ハザマ氏によって同様の指摘がされています)。これが分からなかったということは、シロクマ氏には「恋愛の忌避」という発想ができなかったんです。恋愛や性に対して特に恐怖も嫌悪も持っていない人から見れば、「恋愛そのものの忌避」という発想が出てこないのはむしろ当然と言えるかもしれません。
 そして、シロクマ氏がこのことに考え及ばなかったのは、非モテの多くが自らの恋愛忌避について語らないからでもあります。彼らのほとんどは、「恋愛資本主義」に対する批判はしても「自分は恋愛が怖い」とは言わないんですね。

 しかしそうなると、「非モテは恋愛そのものを恐怖・嫌悪している」という推測自体が怪しくなってきます。私の前回の記事についても「本当に非モテは恋愛を嫌っているのか?」と疑問に思った人もいるでしょう。第一、非モテの恋愛忌避が本当なら、非モテ当事者からもっと「自分は恋愛が嫌いなんだ」「性行為が怖いんだ」といった表明があってもいいはずです。上のシロクマ氏のような「誤解に基づく批判」がされる現状では尚更でしょう。

 もし本当に非モテが恋愛を恐怖・嫌悪しているのであれば、なぜ彼らはそれをはっきりと主張しないのでしょうか?



 このことを考える手がかりになるのが、前回に述べた次の事実です。
まず第一に、「非モテ系」は自虐芸であったという点です。この場合の自虐は、恋愛経験のある人を上に、恋愛経験のない自分達を下に配置するヒエラルキーを前提にしなければ成り立ちません。このヒエラルキーを自明とする考え方を、現在の非モテも引き継いでいます。
 非モテは「モテのヒエラルキー」を社会において自明だと考えています。ということは、恋愛経験のあるなしが、社会に受け入れられるかどうかに直結することになるわけです。

 このような恋愛観・社会観こそが、非モテが自らの恋愛忌避を語れない最大の理由になっています。彼らは自分達が「恋愛を怖がって自ら忌避している」のだと思いたくないんです。その証拠に、「恋愛を放棄した」と称する非モテ達はかなりの割合で「自分が恋愛を放棄したのは社会(または女)が悪いから、割に合わないからだ」と主張しています。
 非モテは「恋愛できなければ男として駄目だ」といった差別を自らの中に内面化し、それにがんじがらめに縛られています。そのため、「自分が恋愛できないのは真っ当な理由があるんだ、仕方ないんだ」という言い訳を必要としているわけなんですね。

 非モテの一部が女性への激しい憎悪を表明しているのも、このことが根本にあると考えていいでしょう。自分達は「恋愛できない」から「社会に受け入れられない」という一種の被害妄想が、単なる「性への嫌悪」を「性に奔放な(つまりは自分達にとって苦手な)女性への憎悪」に変えてしまうんですね。「自分自身が性嫌悪を持っているからセックスできない」ものを「女が悪い(倫理的でない)からセックスできない」に摩り替えてしまうわけです。



 ミソジニーに陥った非モテ達は、「社会に受容されない覚悟」など持っていません。「少数者として生きていく覚悟」もありません。「社会に受容されないことに絶望して開き直っている」に過ぎないんです。
 問題なのは、彼らがここで「受け入れられるか否か」を all or nothing なものとして捉えている、という点です。「恋愛できない自分達を社会は受け入れない」という強迫が、「恋愛できない自分」を大らかに肯定することを拒んでいると言えるでしょう。

 恋愛が一定の形式を持つ以上、「恋愛に不向きな人」は確実に存在します。「野球に不向きな人」が居るのと同じです。要は、恋愛に向いていないことをいかに(自分自身で)受け入れるか、ということになるでしょう。「電波男」はその一つの手がかりくらいにはなるかもしれません。ただ、作者の本田氏が「萌える男」の中で「萌え」を「家族愛」と結び付けて論じていたところを見ると、本田氏自身も「受容」には程遠いように見えます。

 非モテがあると思っている「モテのヒエラルキー」など実際には存在しません。言い訳も正当化も、本当は必要ないんです。